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金屋石石管 附.石工道具 2018.11.29
庄川と生きた、石工たち

金屋石石管(ふれあいプラザ)

金屋石石管 附.石工道具(かないしせっかん つけたり いしくどうぐ)

平成29年7月31日 ふるさと文化財登録
砺波市栄町
砺波市庄川町金屋
石管5本、石工道具50点 砺波市
石管3本 個人蔵

 庄川が平野に流れ込む扇頂部の庄川町金屋には、多くの石工が居住していました。彼らは庄川の対岸、庄金剛寺村の山中から石を切り出しました。この石は石工たちの住む「金屋」の地名をとって金屋石と呼ばれます。金屋石には耐火性があり、柔らかくて加工しやすいという特徴があるため、日用品のほか、門柱や基礎石などの建築資材、寺社の狛犬や燈籠に使われました。また、石森庄右衛門、森川栄次郎など江戸時代後期の金屋の石工の名が入った石仏が現在も残っています。

 採掘場で切り出された金屋石は、千保川を戸出まで下り、高岡木町の舟方によって伏木へ、そして伏木からは海路、金沢や黒部などへ船で運ばれました。金沢城や黒部の十二貫野用水で、石管(樋石)、つまり水道管として使用されました。石管の継ぎ目は凹凸になっており、水が漏れないように松脂と檜わたなどで固められました。
 






最先端技術を支えた石管

辰巳用水(金沢)
 天保14年(1843)からの金沢城の改修工事に際し、加賀藩は金屋石の輸送を命じ、以後約20年間金屋石が運ばれました。また肝煎たちが身元引受人となって金屋の石工たちが金沢城へと派遣されました。犀川の上流の上辰巳から城内へと飲料水を引く辰巳用水などで使われていた石管です。辰巳用水の建設は寛永9年(1632)のことですが、史料で確認できるのは天保14年の改修工事で使用された事例だけです。寛永9年の工事で金屋石の石管が使われたというのは、あくまでも伝承と考えられます。

竜ノ口用水(黒部)
 黒部の十二貫野用水は、加賀藩の名を受けた椎名道三(1790-1858)二因って建設されました。支流の一つの竜ノ口用水は、サイフォンの原理を応用して、延長約64mもの谷を越え、向かいの峰に用水を吹き上げさせました。弘化5年(1848)頃には木管が使われていましたが、後に金屋石の石管に取り替えられました。石管の継ぎ目には「印籠ばめ」という継ぎ手が施され、水漏れを防ぐ工夫がされました。この数年前に行われていた金沢城改修の技術が応用されました。十二貫野用水二より、新たに黒部川左岸の広大な丘陵地、約220haが開墾されました。


 ふるさと文化財に登録されている石管は8本あります。3本は十二貫野用水の石管で、庄川水資料館の開館を記念して平成2年(1990)に、黒部市の十二貫野用水土地改良区から譲られました。2本は辰巳用水の石管で、残り3本は庄川町の旧家で保存されていた石管です。

手仕事の記憶

採掘された金屋石は、庄川左岸の中洲で一次加工を行ってから石屋に運ばれました。そのため、この中州は石屋島と呼ばれました。大正時代には石材の採掘に火薬を使うようになり、また昭和30年頃には山の中腹と石屋島とをロープウェイ(索道)で結び、運搬の合理化が図られました。しかし、作業の多くは昔ながらの手作業で行われました。

 石管と共に登録された石工道具は、金屋石の採掘・加工を行っていた石工の石澤勝氏が、実際に昭和40年頃まで使用していた物です。石澤氏から数名の手を経て砺波市に寄贈されました。石澤氏から譲り受ける際に、道具の名称や用途、制作者について聞き取りが行われました。道具には、庄川町岩村の鍛冶屋が作ったもの、高岡の道具屋から購入したものの他、石澤氏自作のノミやハビシャン(細かい細工に使用する道具)も含まれています。金屋石、そして金屋村についての貴重な証言です。


 石管の石工道具は、庄川水記念公園敷地内の展示場とふれあいプラザで展示しています。
 また平成23年1月には、金屋石採掘場がふるさと文化財に登録されています。

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所在地
〒932-0305 富山県砺波市庄川町金屋1550

アクセス
砺波ICから15分

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