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T−C原始・古代の日本『家持と志留志』1〜3 2018.10.22
1万葉の砺波

万葉の歌人、大伴宿祢(すくね)家持は746年(天平18)28歳の青年国守(国司の長官)として越中国府に赴任した。それからの5か年間、国守として越中国を巡回するうちにこの砺波地方で詠んだ歌を万葉集に載せている。

 まず、新任の家持の館での宴に同席した僧玄勝が大原高安真人の詠んだ一首を紹介したものがあげられている。


妹が家に伊久里の森の藤の花
  今来む春も常如此(つねかく)し見む
(万葉集 巻17 3952)

 この歌の伊久里というのは、市内の井栗谷だとする考え方が有力である。大原高安真人は高安王のことであろうといわれる。高安王は天平11年(739)4月、大原真人の姓を賜り、同14年12月19日、従四位下で没している。

 次に砺波郡雄神河辺(おがみがわべ)で家持が作れる歌一首として有名な短歌がある。


雄神川紅(くれない)にほふ乙女らし
 葦附(あしつき)採ると瀬に立たすらし
(万葉集 巻17 4021)


 この歌は小矢部川の下川崎(現小矢部市)で詠まれたものでないかといわれている。


大野路は繁道(しげぢ)森道繋ぐとも
 君し通はば道は広けむ
(万葉集 巻16 3881 越中国歌)

 和名鈔によれば、大野郷は砺波一二郷の一つで、その一部に市内を含む井山庄のどこかで、この歌が詠まれたと考えられる。


夜夫奈美の里に宿借り春雨に
 隠り障むと妹に告げつや
(万葉集 巻18 4138)


 この短歌の詞書きによると、家持が墾田地を視察の途中、地元の郡司である多治比部北里(たじひべのほくり)の家で宿泊したときに作ったものであることがわかる。北里は郡司の主帳(さかん)であったが、その夜夫奈美の住居は庄川弁財天から庄川町三谷にかけてのあたり、あるいは市内池原あたりにあったと考えられる。

 このうたには次のような意味がこめられている。
 しごとのつごうでやぶなみの里にやってきたところ、
 春の嵐が強くなり今夜は帰れない、
 それで部下の北里の家に宿泊することにしたと、
 伏木の国府でひとり待つ君に、伝言が届いただろうね。

 ちなみに、この歌は750年の現行暦、4月の初めに作られている。春耕の準備を促すために国司の一行を引きつれて郡内を巡視していた家持が、当時、夫を訪ねて伏木国府に滞在していたと考えられる妻坂上大嬢(さかのえのおおいらつめ)にあてて詠んだものであろう。

2利波臣志留志

 7世紀後半に利波臣氏(となみのおみうじ)と名のった豪族が砺波地方、小矢部川の中流域にあったことは先に述べている。8世紀半ば、大伴家持が国守として着任した翌年、利波臣志留志の記事が続日本紀(しょくにほんぎ)に現われる。

 河内国の人、大初位下、河俣連(むらじ)人麻呂が銭1千貫、また越中国の人、無位利波臣志留志が米3千碩(せき)を東大寺に寄進し、ともに外従五位下(げじゆごいげ)の位を与えられた。(続日本紀 天平19年9月2日)

 このころ東大寺の大仏造営事業は財政的に行きづまっていた。大伴氏は造営の責任者である橘諸兄(たちばなのもろえ)と深いつながりがあった。その大伴氏は河内国(大阪府)と越中国で国守を出していたので、前記の2人は大伴氏を通じて橘政権を支援するため寄進したものといわれる。ときの諸兄の政敵は藤原仲麻呂であった。

 それから20年後、中央政界で道鏡が政権を握ったころ、志留志は東大寺に百町歩の墾田(井山村120町のうちと考えられる。)を寄進し、従五位上の位を授けられて、越中員外介(いんがいのすけ)となり、越中国の東大寺の田地を管理する専任国司となった。当時、孝謙女帝のほかに後援する勢力のなかった道鏡を助けて、志留志は官界入りを果たし、道鏡失脚後の779年(宝亀10)伊賀(三重県)国守に任官している。このように彼には巧みな政治行動力があったと考えられている。ところが、利波臣を祖先にもつ石黒氏の系図には利波臣虫足(むしたり)や真公(まきみ)の名はあるが志留志の名は見られない。当時、利波臣氏は地方行政に深く関係していたにもかかわらず、志留志の記事がないところから、志留志の一族は利波氏の中でも本宗家ではなく、傍系の家がらに属していたのではないかといわれている。

 他方、この系図に見える利波氏一族は、郡司、大領、小領などの地方郡政上の役人となって平安時代に続いているので、やはり志留志はこの中に入らない別系の利波臣氏ということになる。

3砺波の郡司、多治比部氏

砺波地方の豪族に蝮部(たじひべ)氏があった。一族には千対と北里(ほくり)がいる。万葉集、巻18の夜夫奈美(やぶなみ)の里の歌で、家持に宿所を提供した北里は、郡司の役人で税務に明るい「砺波郡主帳」という事務官であった。この一族の三波が東大寺領井山庄の墾田の東に私田を持っていたので、北里の家は庄東の台地の地域にあったろうと考えられている。また東大寺の荘園地図に、志留志の土地の南に蝮部千対・三波の所有地があり、767年(神護景雲元年)の地図に、志留志と蝮部諸木(もろき)の署名があるので蝮部氏は志留志の下で副擬主帳(ふくぎさかん)といった肩書で働いていたものと思われる。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

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