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U−@中世の砺波『中世砺波の荘園について』1・2 2014.9.4
1荘園の変質「名田(みょうでん)の成立と中世集落」

毘沙門堂

 中世において砺波平野を奔放(ほんぽう)に流れ、しばしばその流路を変えた庄川は、この平野の開発を極めて困難なものにした。たび重なる氾濫(はんらん)、開墾地の流失、扇状地特有の「ザル田」などの悪条件に耐え、この地の人々は粘り強く開墾を進めた。奈良時代の東大寺領荘園、平安時代の石黒荘・高瀬荘に代表される砺波地方の荘園は、人々の必死の努力により、これ以降も着実に広まっていった。そして中世になると、般若野荘と油田条が、砺波の代表的荘園として史上に登場する。

 中世社会でも、経済の基礎は荘園にあった。しかし、その性格は古代荘園とは異なっている。つまり、古代荘園は、領主が自分で開発にあたる初期荘園の形をとったが、10世紀以降は、開発した荘園を名目上、寺社や貴族に寄進する寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)が増加した。そして中世では特に、貴族・寺社などの本所(ほんじょ)の下で実際に土地開発を行なった有力農民が、自分の開墾地の所有権を主張した。この権利主張の手段として、開墾地に自分の名を付けて「何某名」と呼んだ。これが、現在の地名に残っている。たとえば般若野荘域では、安川・頼成の地域に二目(ふたつめ)・北明(きため)・公文名(くもんめ)などの小字があり、これらが野武士(やぶし)・正盛(まさもり)・坂東(ばんどう)・正覚(しょうかく)・善導(ぜんどう)の小字の間に見られる。前者は名田のなごりであり、後者はその支配者たる名主の名が地名に残ったものである。油田条でも、名主の屋敷跡を思わせる掘内(ほりのうち)という地名や、名田のなごりである十年明(じゅうでんみょう)・油田大坪(あぶらでんおおつぼ)・則安名(のりやすみょう)(島)・三郎丸(さぶろうまる)・千保(せんぼ)などの集落名が見られる。

 このような名主による名田支配が進むにつれ、地域の小農民がこの支配のもとに集まり、名田集落を作る。さらに、これが自治性を持ち、村掟(むらおきて)を定めたり、神社の祭礼や用水管理を行なうようになるが、これを惣村(そうそん)という。先に紹介した諸村落も、こうして作られたと考えられる。

1荘園の変質「地頭による荘園侵略」

 般若野荘内の毘沙門堂(びしゃもんどう)より400mほど西南に真宗大谷派の速恩寺(そくおんじ)がある。この寺は、古くから”地頭方(じとうほ)”の名で呼ばれている。これは寺の呼称というより、この地の俗称がこの寺に托されて残ったものであろう。また、同荘内にあった常福寺の1506年(永正3)につくられた鐘の銘文(めいぶん)にも、”般若野荘地頭方”と記されていたという。これらの事実から、この辺は中世には地頭領であったと考えられる。一方、般若野荘の領主徳大寺家の文書には、しばしば”般若野荘領家方”という表現がある。これらのことから、当時、般若野荘では、地頭による荘園侵略が活発化したため、それを食い止めようと、領主の徳大寺家が荘園の下地(土地そのもの)を折半したと考えられる。こうして般若野荘の南部が領家方、北部が地頭方に分けられ、地頭方は、さらに東保と西保に分けられていった。

2般若野荘について「般若野荘の荘域」

 般若野荘は、現在の庄東・庄西地区を中心に、南限は庄川町三谷(みたに)地区、北限は高岡市中田町にまで及ぶ。庄川は現在、この般若野荘の中央部を南から北に貫流するが、この当時は主流が今より西にかたよっていたため、この荘域を分断することが無かった。よって、庄東・庄西は一つのまとまった地域であったわけである。

2般若野荘について「般若野荘と徳大寺家」

 般若野荘の領主は、徳大寺家である。徳大寺家は藤原(徳大寺)実能(さねよし)に始まる家柄で、般若野荘を支配するようになったのは、実能の子公能が越中国守ににんめいされた1126年(大治元)ごろからのことである。この後、徳大寺家は院政期にその地位を確立し、鎌倉期にも自分の所領である般若野荘を確実に子孫に伝えている。たとえば、三代将軍足利義満は般若野荘領家方へ守護使(しゅごし)を入れないことを認め、また役夫工米(やくぶくまい)の徴収と国役とを免除している。つまり、将軍の権限で、徳大寺家の荘園支配を保証したのである。同様のことが将軍義教(よしのり)・義政(よしまさ)の時にも行なわれている。このようにして領家の権利が守られて来た般若野荘も、15世紀末までに武士の横領にあい、先に述べたように地頭方と領家方に中分(ちゅうぶん)されてしまった。一方、守護も半済(はんぜい)や守護請(しゅごうけ)を盾に取って荘園を侵略し、さらには国内の武士と主従関係を結んで、自分の任国を一円的に支配するようになった。それでは、このような武士の横領に対し、公家はなす術がなかったのだろうか。

 彼らももちろん、黙ってこれを見ていた訳ではない。応仁の乱も終わりに近い1474年(文明6)に徳大寺 実淳(さねあつ)はついに越中の自分の領地、般若野荘に下向(げこう)した。武士の侵略を食い止めるため、現地で自分の支配地の確認をしようとしたものである。彼も自家の荘園の減少に脅威を感じ、みずから立ち上がらざるを得なくなったのである。この後、権大納言徳大寺実道(ごんだいなごんとくだいじさねみち)も、年貢を確保するため般若野荘へ下向している。しかし、彼は1545年(天文14)、2度目の越中下向時に、当時の武士・荘民の違乱のため殺されてしまう。この裏には、徳大寺家が般若野荘の支配を強化すると、今までの利益を失ってしまうという、当地の人々の危機感があったのであろう。当時の貴族はこの知らせに「前代未聞の儀、言語道断の儀」と憤慨してはいるが、彼らの力では下克上の世相はもはやどうしようもないことを内心痛感していたに違いない。

 殺害された実道ら一行は安川の薬勝寺南方200mほどの地にある公家塚(公卿塚・九人塚)に葬られたらしい。彼らの無念の死によるものか、この辺に奇怪な事が起こったり、夜半に陰火が現れたりして、郷民を不安にしたという。この怪事に対し、薬勝寺の陽室和尚が菩提を弔い魂を鎮めたので、凶異減少はおこらなくなったという。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

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