中世において砺波平野を奔放(ほんぽう)に流れ、しばしばその流路を変えた庄川は、この平野の開発を極めて困難なものにした。たび重なる氾濫(はんらん)、開墾地の流失、扇状地特有の「ザル田」などの悪条件に耐え、この地の人々は粘り強く開墾を進めた。奈良時代の東大寺領荘園、平安時代の石黒荘・高瀬荘に代表される砺波地方の荘園は、人々の必死の努力により、これ以降も着実に広まっていった。そして中世になると、般若野荘と油田条が、砺波の代表的荘園として史上に登場する。
中世社会でも、経済の基礎は荘園にあった。しかし、その性格は古代荘園とは異なっている。つまり、古代荘園は、領主が自分で開発にあたる初期荘園の形をとったが、10世紀以降は、開発した荘園を名目上、寺社や貴族に寄進する寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)が増加した。そして中世では特に、貴族・寺社などの本所(ほんじょ)の下で実際に土地開発を行なった有力農民が、自分の開墾地の所有権を主張した。この権利主張の手段として、開墾地に自分の名を付けて「何某名」と呼んだ。これが、現在の地名に残っている。たとえば般若野荘域では、安川・頼成の地域に二目(ふたつめ)・北明(きため)・公文名(くもんめ)などの小字があり、これらが野武士(やぶし)・正盛(まさもり)・坂東(ばんどう)・正覚(しょうかく)・善導(ぜんどう)の小字の間に見られる。前者は名田のなごりであり、後者はその支配者たる名主の名が地名に残ったものである。油田条でも、名主の屋敷跡を思わせる掘内(ほりのうち)という地名や、名田のなごりである十年明(じゅうでんみょう)・油田大坪(あぶらでんおおつぼ)・則安名(のりやすみょう)(島)・三郎丸(さぶろうまる)・千保(せんぼ)などの集落名が見られる。
このような名主による名田支配が進むにつれ、地域の小農民がこの支配のもとに集まり、名田集落を作る。さらに、これが自治性を持ち、村掟(むらおきて)を定めたり、神社の祭礼や用水管理を行なうようになるが、これを惣村(そうそん)という。先に紹介した諸村落も、こうして作られたと考えられる。
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