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U−B中世の砺波『中世砺波の信仰と文化』3 2014.9.4
3戦国時代の浄土真宗

表1・表2 下PDFにもあり

 砺波と真宗とのかかわりは、本願寺5代綽如(しゃくにょ)が砺波郡山斐郷(やまひのごう)内井波で、1390年(明徳元)に瑞泉寺を建立したことに始まる。綽如は1393年(明徳4)にこの地で没するが、本願寺6代巧如(ぎょうにょ)の三男如乗(にょじょう)が綽如のあとをついで、瑞泉寺第2代となる。これ以降、北陸真宗勢力は、瑞泉寺を中心として、農民の門徒化を進めていった。しかし、真宗勢力が北陸の地で最も拡大するのは、(表1)から明らかなように、1471年(文明3)の蓮如の吉崎御坊創建(よしざきごぼうそうけん)のあとのことである。この頃はちょうど応仁の乱の最中で、農村では惣村(そうそん)が生まれつつある頃でもあった。蓮如はこの惣村の中心である坊主・年老(としより)・長(おとな)をまず門徒化し、そして、彼らを通じて農民の深部にまで真宗を浸透させた。こうして、農民を中心に増大した門徒たちは、本願寺を中心に団結し、一大勢力をなした。これが世にいう、一向一揆である。砺波地方の真宗勢力も、本願寺と共に活発に行動したが、具体的には(表2)を参照されたい。

3戦国時代の浄土真宗「厳照寺について」

 厳照寺は、瑞泉寺・勝興寺(しょうこうじ)・善徳寺とならんで、砺波市内では唯一、加賀藩より拝領地(はいりょうち)を受けた寺院である。この寺は、本願寺5代綽如が開基でり、綽如の三男周覚(しゅうかく)、周覚の第四子如順、そしてその子の了勝(りょうしょう)と、寺は受け継がれている。創建当時は、現在の庄川の流路中(福岡)にあったと伝える。1585年(大正13)の大地震によって、庄川の流れが変わった後もこkに位置していたが、1630年(寛永7)の洪水で庄川は氾濫し、ついに般若野を貫流(かんりゅう)する現在の流路となった。この水害で厳照寺は流失し、多くの寺宝をも失った。そして、翌年には宮森の地に移り、本堂を再建している。こののち、1647年(正保4)には、藩に願い出て宮森村から芹谷野段丘(せりだんのだんきゅう)の福岡の地へ移り、現在に至っている。

3戦国時代の浄土真宗「真宗と開発領主・道場坊主」

 砺波地方の真宗寺の寺院・縁起によると、真宗寺院の開基が、その地域の開拓者であったり、土豪であったりする場合がしばしば見うけられる。

 たとえば神島の円光寺の開基は藤田太郎貞明という。彼は神島村の開拓者でもあり、石山合戦に参加したのち、1591年(大正19)に本願寺教如上人より真影を受け、法名教信(ほうみょうきょうしん)を賜ったという。それ以来、子孫は出家して寺を守り、その傍ら、農業を営んで来たと伝える。

 また、柳瀬の万遊寺は本願寺の道場坊主である正玄(しょうげん)に端を発し、周辺の寺院の統率や近辺の開発にあたったという。

 このように砺波地方では、真宗寺院の開基や道場坊主が地域の開拓者であるという伝承が、多く残っている。これらを、簡単に事実と断定することはできないが、少なくとも真宗勢力がこの地の開発と深くかかわっていたことを、反映していると考えられる。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

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