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V−D近世の砺波『ゆらぐ封建社会』 2014.9.4
1農家の変化

持高からみた農民構成の変遷(太田村の場合)

 農民を土地に定着させ、毎年の年貢収入を安定させようと実施された改作法であったため、特に農民が土地を売買することを厳しく禁じた。藩では1615年(元和元)に土地売買の禁止令を出し、また寛永に入ってからも土地売買無効令を出している。しかし、農村にもだんだんお金がゆきわたるようになると、高を売らなければ年貢を納めることができない農民が次第に増えてきて、元禄のころには半ば公然と行われるようになった。この頃、藩の財政も苦しくなり、年貢の取りたてを厳しくするようになった。ところが、1692年(元禄5)は大凶作でより一層、年貢を納められない農民が続出した。

 年貢が納まらないことは領主にとってはたいへんなことなので、1693(元禄6)にいわゆる切高仕法を実施して、年貢を納めることのできないときにかぎり、高を売ってもいいことにした。もっとも切高仕法以前においても年季預け(土地を抵当に入れてお金をかりること)という形で土地の売買が行なわれていたが、年季預けでは売買の事実が明らかになったときはこれを無効にして、無償で売主に返させていたのである。これはかえって真剣に耕作しない農民をはびこらせる結果になるので、土地の売買を認めることが農民を励ますゆえんであるというのが切高仕法を実施した藩の考えであった。しかし、土地を売買することがひとたび許されると、堤を切った水のような勢いでひろまっていった。

 こうして、村の内部には高を売ってしまって無高になるもの―――いわゆる頭振(あたまふり)の層と、これを買い集めてだんだん大きくなった大高持の層とが生まれることになった。また頭振に転落しないまでも、名高(なだか)といってわずか2升、3升といった名目だけの高をのこして「百姓」の地位にふみとどまっている者もおおくなった。このように、封建社会のしくみは領主の考えとはちがった方向へ歩みはじめたのである。

 こうした動きは、この砺波地方では具体的にどのように展開したのであろうか。太田村に残っている村高帳をもとに、そのあらましをみてみよう。1651年(慶安4)、つまり改作法が実施される直前には、1軒あたり平均86石余(約5町7反)を家族を含め、親族やたくさんの下人、下女を使って大規模に耕していた。3年後の1654年(承応3)、改作法が進行中のころであるが、二、三男の分家による増加で40〜50石程度の高をもつものが多く見られた。それにしても、まだ下人をかかえていなければ耕作できなかった。しかし、切高仕法が実施されて8年後の1701年(元禄14)には、今まで見られなかった10石以下の百姓が40%も占めるようになっていた。それ以後、この傾向はゆっくりながらもさらに続いた。1740年(元文5)の洪水で村高半分近くを失い、5石以下の零細な農民が急にふえている。農村にもお金がゆきわたるようになり、村内に裕福な者と貧乏な者の差が生まれてくる。貧乏な者は年貢や生活費の穴うめに高を売るようになった。1839年(天保10)には、頭振に近い1石未満の百姓が51.5%となり、逆に100石以上の大地主が現れるようになった。

 また、切高を許したことは、村の内部に高持と小高持・頭振の層を作っただけではなく、小さな村では村の高が村外へ流出することにもなった。このようにして、他村の高をもつことを懸作(かけさく)といった。たとえば新屋敷村(今の林地区)は草高294石余の村であるが、1829年(文政12)には、このうち4割近い115石余りが他村からの懸作人で占められていた。

 こうして、ごくわずかの大地主とたくさんの零細農という形のまま、時代は明治へ移っていった。

2農村手工業のめばえ

 藩政期の中頃から徐々に農村へお金がゆきわたるようになると、今まで自給自足で経営してきた農業も、農具や肥料をお金で買うようになってくるが、そのためには現金収入を得なければならなくなる。また、都市が発達して品物を売って生活する人が多くなり、交通便利になって品物がらくに運べるようになると、各地でめずらしいものをつくって売り出すようになった。綿や藍・煙草などの商品になる作物を作ったり、農業の片手間に蚕を飼ったり、麻を作って布を織ったりするようになる。こうして、それぞれの村や町に特産物というものが大量にうまれてきた。杉木新町(出町)周辺はあまり見るべきものはないが、文政のころの「諸産物盛衰書上申帳」で、砺波郡全体の産物をみると、麻布・絹・木綿などの織物をはじめ、酒・木製品・蚕種(さんしゅ)・菅笠(すげがさ)・菜種油等がある。これらが経済的な意味で発展してくるのは文化文政期以後(1800年代のはじめ)である。藩もそこからうまれてくる利益に目をつけ、領内に産する産物を保護育成するとともに、各地にめばえてきた手工業を奨励した。

 砺波郡の麻布(以下で布というのはすべて麻布のこと)は、古くは、中世以前からある。蟹谷荘の五郎丸・八講田村(はっこうでんむら)で多く産した五郎丸布・八講布がそれである。天正から慶長へかけて、この村の布は藩からの献上品に使われたりしているが、後には砺波平野全般で生産されるようになった。特に当市の中条村では、五郎丸・八講田村とともに年貢の代わりとして白布を納めていたことが注目される。中条村で十村を勤めていた又兵衛が、1617年(元和3)に開いた戸出新町では、布商売が盛んに行われ、1640年(寛永17)には5000余巻(1巻は2反)の布を扱っている。元禄のころ、砺波郡内で布さらしが行なわれていたのは次の村々であった。(下線は砺波市内の村)

下後丞村・末友村・臼谷村・江波村荒谷村東中村・川原崎村・遊部村・細木新村・夏住村・小伊勢領村・矢部村・本保村・市野瀬村・狼村・伊勢領村・大清水村・壱歩弐歩村・上開発村・大源寺村・春日吉江村。

この分布を見ると、扇状地末端の湧水地帯に多いことがわかる。その中心に位置する戸出町は、こうした自然条件を背景に集散地として伸びてきたのである。ところが元禄・宝永のころから布の生産が減ってきている。このころ、近江の商人が福光に入り高値で買い入れたので、以後だんだん福光が砺波地方の集散地として、戸出にとってかわることになった。

 一方、絹についてみると、桑の生育に適する五ヶ山や山麓台地をひかえた城端・井波地方が盛んであった。特に城端の絹織物業は、1693年(元禄6)には、総戸数689戸のうち半数以上が絹に関係した職業で生計をたてていた。生産高は、小松とともに藩下第一の産地であった。

 隣町の福野では、近世後期から木綿縞(もめんじま)の生産が起った。文政のはじめ、この町の寺島屋源四郎が尾張・美濃辺から縞織の技術を導入して広めたもので、急速に伸びていった。



「杉木新町の場合」

 周辺の諸町が、それぞれに立地条件を生かした産業をもっていたのにくらべ、そのまん中にある杉木新町だけが何ら見るべきものがなかったが、時代のなりゆきと周囲の町々の影響をうけて、小規模であるが商品を売買する動きがみられる。すなわち、1804年(文化元)から鷹栖屋五右衛門が布買入をしたのがその始まりのようである。少し遅れて安政年間に神島屋七次郎も布屋をはじめたが、主な布屋はこの2軒だけであった。また、福野町に起った棧留縞の影響をうけて当町の四日屋吉左衛門も、まもなく1832年(天保3)に創業者の寺島屋源四郎が亡くなると、代って木綿糸の御仕入人(おしいれにん)となり、福野をはじめ砺波地方の世話方を引受けることになった。このことは、吉左衛門自身、相当手広く行なっていたことを示すものであろう。

 1838年(天保9)から1844年(弘化元)へかけて現れる当市の布屋には、鷹栖屋五右衛門のほか、油屋七郎兵衛・太田村間右衛門・石丸村三郎兵衛・矢木村藤右衛門らがみられる。他の町に比べての特徴は、太田・石丸・矢木など付近の村落にも有力な布屋が発生していることである。

3黒船きたる

 1639年(寛永16)の鎖国以来200年、太平の夢をむさぼっていた日本にも、1800年代はじめごろから、異国船がしきりに近海にあらわれはじめて、長いねむりをよびさまされた。藩は幕命によって沿海の村々の距離をはかり、海防の具体策をたてた。また、異国船打払いの幕命が出たのは、1825(文政8)であった。加賀藩でも再び海防を厳重にし、1851年(嘉永4)に伏木・放生津・生地・輪島に台場を築いて大砲を据えている。

 こうした折から、1853年(嘉永6)6月3日、米使ペリーが軍艦を率いて浦賀にきて正式に開港を求めた。加賀藩の同年12月のおふれによれば、銅や鉄の買入れをしたり、職人調べをしたりしている。また水泳の上手な者や足の速い者、鉄砲の心得のある者、力の強い者を報告させた。この前後から藩では、1854年(嘉永7)杉木新町の御郡所にも鉄砲角場(射的場)を設け、鉄砲の教習に力を入れた。さらに、1859年(安政6)4月24日、黒煙をはく大船が富山湾に姿を現した。ニュースはいち早く金沢をはじめ各地へとんだが、杉木新町の御郡所にもその一挙一動が刻々もたらされた。

 ペリー来航以後、アメリカ・イギリス・ロシアとの間に和親条約が、また5か国通商条約が結ばれて、大勢は開国へ一歩前進したかにみえたが、1862年(文久2)、再び海防を強化することになり、藩でも同年12月、伏木と魚津などに在番(ざいばん)と称する藩兵を派遣して海防にあたらせた。越中では杉木新町をはじめ計11か所にけい古所が設けられた。杉木新町のけい古所は十村相談所の隣接地(今の砺波市立図書館のあたり)にあったようで、百姓や町人の二、三男のうち身体の強い者を集め、鉄砲の取扱いのけい古が始まった。ついで、神島村の野割に訓練所が設けられた。

 1867年(慶応3)12月王政復古の大号令が下って、徳川氏の政権は倒れた。明治2年6月版籍を奉還さらに4年7月には廃藩置県が発令せられて、ここに砺波地方で300年近くにわたった藩政はその幕を閉じた。

【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

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