農民を土地に定着させ、毎年の年貢収入を安定させようと実施された改作法であったため、特に農民が土地を売買することを厳しく禁じた。藩では1615年(元和元)に土地売買の禁止令を出し、また寛永に入ってからも土地売買無効令を出している。しかし、農村にもだんだんお金がゆきわたるようになると、高を売らなければ年貢を納めることができない農民が次第に増えてきて、元禄のころには半ば公然と行われるようになった。この頃、藩の財政も苦しくなり、年貢の取りたてを厳しくするようになった。ところが、1692年(元禄5)は大凶作でより一層、年貢を納められない農民が続出した。
年貢が納まらないことは領主にとってはたいへんなことなので、1693(元禄6)にいわゆる切高仕法を実施して、年貢を納めることのできないときにかぎり、高を売ってもいいことにした。もっとも切高仕法以前においても年季預け(土地を抵当に入れてお金をかりること)という形で土地の売買が行なわれていたが、年季預けでは売買の事実が明らかになったときはこれを無効にして、無償で売主に返させていたのである。これはかえって真剣に耕作しない農民をはびこらせる結果になるので、土地の売買を認めることが農民を励ますゆえんであるというのが切高仕法を実施した藩の考えであった。しかし、土地を売買することがひとたび許されると、堤を切った水のような勢いでひろまっていった。
こうして、村の内部には高を売ってしまって無高になるもの―――いわゆる頭振(あたまふり)の層と、これを買い集めてだんだん大きくなった大高持の層とが生まれることになった。また頭振に転落しないまでも、名高(なだか)といってわずか2升、3升といった名目だけの高をのこして「百姓」の地位にふみとどまっている者もおおくなった。このように、封建社会のしくみは領主の考えとはちがった方向へ歩みはじめたのである。
こうした動きは、この砺波地方では具体的にどのように展開したのであろうか。太田村に残っている村高帳をもとに、そのあらましをみてみよう。1651年(慶安4)、つまり改作法が実施される直前には、1軒あたり平均86石余(約5町7反)を家族を含め、親族やたくさんの下人、下女を使って大規模に耕していた。3年後の1654年(承応3)、改作法が進行中のころであるが、二、三男の分家による増加で40〜50石程度の高をもつものが多く見られた。それにしても、まだ下人をかかえていなければ耕作できなかった。しかし、切高仕法が実施されて8年後の1701年(元禄14)には、今まで見られなかった10石以下の百姓が40%も占めるようになっていた。それ以後、この傾向はゆっくりながらもさらに続いた。1740年(元文5)の洪水で村高半分近くを失い、5石以下の零細な農民が急にふえている。農村にもお金がゆきわたるようになり、村内に裕福な者と貧乏な者の差が生まれてくる。貧乏な者は年貢や生活費の穴うめに高を売るようになった。1839年(天保10)には、頭振に近い1石未満の百姓が51.5%となり、逆に100石以上の大地主が現れるようになった。
また、切高を許したことは、村の内部に高持と小高持・頭振の層を作っただけではなく、小さな村では村の高が村外へ流出することにもなった。このようにして、他村の高をもつことを懸作(かけさく)といった。たとえば新屋敷村(今の林地区)は草高294石余の村であるが、1829年(文政12)には、このうち4割近い115石余りが他村からの懸作人で占められていた。
こうして、ごくわずかの大地主とたくさんの零細農という形のまま、時代は明治へ移っていった。
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