砺波市の文化を、デジタルで楽しむウェブサイト。TONAMI DIGITAL ARCHIVES

W−A近代の砺波『商工業の発達と交通』3 2014.9.4
3商工業の発達「出町商店街の発展」

明治期の出町の街なみ

 明治時代の出町の商店は、種類別に見ておよそ50種にものぼり、日常生活に必要なあらゆる商店が軒を並べていた。特に大きな商売力を誇っていたのは、神沢・小野田・大橋の各呉服屋であった。彼らは、新柄ものの販売から、古着の売買・交換など積極的な商いを行なった。その他、商店の数で多かったのは、米穀屋・飲食店・小間物屋・荒物屋・八百屋・菓子屋・酒屋であり、特に飲食店では、中町の浅野徳太郎や御旅屋長太郎が大きな店構えであった。興味をひくものとしては、明治時代すでに出町に自転車屋が6軒もあったということである。自転車が散村に住む人々の足として、早くから普及していたことを物語っており、他の市町村に見られない特異な点であろう。

 出町の中心街は、川原町・東町・中町・西町である。この通りは、藩政期から砺波平野を南北に縦断して走る最重要道「砺波街道」に面しており、明治以降の出町市街地の拡大は、もっぱらこの通りを中心にして四方に広がっていった。出町に最初の街路燈がついたのは、大正初年のことであり、道路の舗装は、1936年(昭和11)であるが、いずれもこの通りが最初であった。

3商工業の発達「砺波の主要工業の発展」

 明治時代の砺波の工業としてあげられるのは、酒造業・織物業・印刷・農機具の工業である。酒造業では、若鶴酒造・立山酒造・吉江酒造が、そろってこの期に創業を開始した。織物業では、佐藤豊太郎(さとうぶんたろう)が、山王川河畔で水車による打綿を始めた。1873年(明治6)大矢四郎兵衛によって、砺波最初の印刷所「砺波活版」が創業し、金岡甚三(かなおかじんぞう)は、1907年(明治40)過ぎから、米穀乾燥機の試作にかかっていた。

 大正期の砺波の工業は、明治期に比べれば、一段と進歩した。1910年(明治43)に創設された出町電燈株式会社が、1921年(大正10)頃に市内の大半の配電工事を終えたので、砺波地方の家内手工業は、工場の動力化をはかっていった。このため今までのような個人経営による小資本では、経営が何かと困難となり、第一次世界大戦による好況と相まって、会社組織に姿をかえていった。1918年(大正7)には、小野田八三郎を社長に出町麻織物株式会社が設立され、神田孝一の中越製布株式会社、佐藤豊太郎の北陸綿業株式会社も相次いでこの年に創業した。1920年(大正9)には、砺波活版所が中越印刷株式会社となり、岩川毅(いわかわたけし)による大発展の端緒が開かれた。金岡農機具も、1919年(大正8)に金岡工業となり、大陸へと販路を拡大していった。

3商工業の発達「出町同志研究会」

 近代砺波の商工業の発展に伴い、商工業団体も設立された。1912年(明治45)に設立された出町実業協会は、今日の砺波商工会議所の前身であり、砺波市最初の資本家を中心とした団体であった。1913年(大正2)には、出町同志研究会も発足した。この会は、出町の商工業の発展に関心をもった青年実業家たちの集まりで、会員1人が1会社を創設することを誓い合っていた。彼らの活動は、出町電燈株式会社に対して、町はじまって以来の町民大会をひらき、値下げを訴えるなど、当時としては極めて革新的であり、出町の商工業者や付近の農民・地主にあたえた影響も多大なものであった。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

「『砺波の歴史』」の他の記事

MORE

「村のくらし」のタグの記事

MORE

「手工業 紡織」のタグの記事

MORE

「商業 」のタグの記事

MORE

「運搬」のタグの記事

MORE