慢性的な不況の中で、苦しい生活をしいられてきた自作農民は、なんとか収入を得ようと、さまざまな副業を試みた。その中で、今では県の花にもなっているチューリップ栽培が、大正時代にこの砺波で始まった。1918年(大正7)、庄下村矢木の水野豊造は、種屋からのカタログから見つけたチューリップという花を初めて咲かせた。真っ赤なかわいらしい花はたいへんめずらしがられ、切り花として高い値段で売れた。そして、開化のあと、土の中に見事な球根が育っていることを発見し、今度は球根を育てて売ることを思いつき、全国でも初めてのチューリップ球根栽培の研究を始めた。
1924年(大正13)には、村内の仲間たちと球根組合をつくり、本格的にチューリップの球根栽培を始めた。冬のきびしい寒さや雪が、球根を一定の状態に保ち発病を防ぎ、春になると一斉に花を咲かせる大切な条件となっていったのである。それに、砺波地方の農家にとって都合がよかったのは、稲刈りのおわった11月から翌年の6月までチューリップを作れば、田んぼを1年に2度使え、水田の裏作として球根栽培ができることであった。1938年(昭和13)、初めてアメリカへ3万球を輸出し、翌々年には、40万球の球根が海を渡るようになったのである。
しかし、第二次世界大戦が始まると、主食以外の作物の栽培が禁止され、豊造たちは、再び栽培できる日のために、畑のすみにこっそりと植え、目立たないようにつぼみのうちに花をつむなど苦労しながら150品種を守り続けた。そして、戦争が終わると、さっそく球根生産の立て直しをはかった。生産者たちは、富山県花卉球根農業協同組合を組織して、全国でも例のない自主統制による計画生産及び、販売体制を確立していった。こうして先人の努力と工夫のおかげで、今日のように農家の大切な副業として、また「富山のチューリップ」として、おおいに発展していくのである。
・そうめんといちご作り
砺波の特産物に「大門そうめん」があるが、これも農家の副業として発展したものである。江戸時代末の1848年(嘉永元)、大門村の売薬の行商人が能登のそうめん作りを見て、この村に紹介した。この頃の砺波地方では、米づくりがただ一つの収入源で、ふゆになるとわら仕事をしてすごしていた。さっそくこのそうめん作りに熱心に取り組んだ。大門村にこの副業が定着したのは、小麦の生産、庄川の清い水、水車小屋、豊富な労働力と、いろんな条件がそろっていたからである。さらに、八乙女山から吹きおろす朝の嵐がそうめんの乾燥に最適で、衛生的なそうめん作りを保証した。以後、幾多の変遷を経て、今日も手作りのよさを生かして盛んに生産され、全国の人にふるさとの味を届けている。
庄下村には、大正から昭和にかけて盛んに行なわれた副業に、いちごの栽培がある。福井県から苗を譲り受けたのが始まりだが、庄下草苺生産出荷組合を組織し、最盛期の昭和10年頃には、1日1万箱を出荷し、富山・高岡の市場を独占していた。
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