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X−A現代の砺波『食料増産への道』 2014.9.4
1耕うん機の導入「稲作技術の進歩」

 戦後における農村変化の基礎は、農地改革である。しかし、農地改革が実施されてから数年間は、土地を得てきそって食料増産に励んだ。しかし、敗戦直後の肥料・農機具などの不足と、戦時中からの地力のおとろえで、効果はあがらなかった。

 農地改革の効果があらわれてきたのは、1955年(昭和30)頃からである。この年は全国的な大豊作となり、しかもその後連続して豊作が続いている。反収が2.5石を越えたのはこの頃からである。

 増収の新技術の一つとして、まず新しい農薬の使用があげられる。今までは、病害虫によって大きな被害を受けていたが、パラチオン剤、水銀粉剤などの農薬が使われるようになり、被害は少なくなった。しかし、この農薬の使用には問題も多かった。農薬の散布によって稲の害虫ばかりでなく、有益な天敵も無差別に殺し、多くの川魚や昆虫が姿を消す結果となった。また、農薬の毒性が強く、作業中の中毒事故や学童の中毒事故、家畜の被害なども多く見られた。

 さらに、保温折衷(せっちゅう)苗代の普及があげられる。よい苗をさらに早く植えることができるようになり、収穫が安定した。また、それまでのレンゲ、たい肥に代って硫安や過燐酸石灰などの化学肥料が多く用いられるようになったこと、砺波の土地、気候条件にあった品種が作られるようになったことなどがあげられる。

1耕うん機の導入「農業の機械化」

 戦後の農業を大きく変えたものは、農業の機械化である。砺波平野における農業の機械化は、動力もみすり機、動力脱穀機など、かなり進んでいた。特にその動力源として、河川を利用した「らせん型水車」を使っていたことに特徴があった。農業機械の利用は戦後早く回復し、1949・50年(昭和24、5)からの農村の電化によって急速に進んだ。しかし、この機械化は、電動機を使った動力脱穀機、動力もみすり機などの収穫期の機械化に限られていた。ところが1950年(昭和25)ごろから導入され始めた動力耕うん機は、それまでむずかしいといわれていた重労働の田おこし作業の機械化として意義が大きく、画期的なことであった。

 その後の動力耕うん機の導入はめざましく、1955年(昭和30)ごろから急激にふえ、1960年(昭和35)ごろには90%以上の水田が、耕うん機によって耕作されるようになった。このように砺波平野において、牛馬を使っての耕作から、耕うん機への交代が短期間に行なわれた要因として、借馬の習慣があげられる。

 砺波地方では、江戸時代から作業用に使う馬を養う草が少ないので、まわりの山村や、能登、飛騨などから農耕馬を借りて使っていた。この借馬は5、6戸の農家が仲間をつくり、その期間中の飼育や世話を順番に行なっていた。この当番の日を“馬番の日”といった。女の人は朝の2時から起きて馬の食べ物を準備し、4時頃には田へ出て作業をする。男の人は、一日中馬を追って耕し、その合間に馬の食べる草を刈ったりして、農家の大変な労働であった。耕うん機導入の初期は、2、3戸から10数戸の農家が共同で買い、使用する例が多かった。借馬時代の「馬仲間」が「耕うん機仲間」にひきつがれる場合もあった。この共同所有仲間は初めは多数であったが、普及にともなって小さい仲間になり、しだいに個人所有の傾向が強くなっていった。これには、兼業化との関係があった。耕うん機の使い手である世帯主が、他の産業に従事しているため、耕うん機の利用希望が土曜、日曜に集中し、耕うん機仲間の運営がむずかしくなったからである。

1耕うん機の導入「農地の交換分合」

 動力耕うん機の導入は、農業にさまざまな変化をもたらした。その一つは交換分合と耕地整理の動きである。耕うん機が導入されて、人々は活躍を大いに期待したが、問題があった。砺波平野は散居なので、昔から自分の家のまわりに田のある農家が多かった。それで、車の通れる農道はほとんどなかった。そのため耕作よりも、耕うん機の運搬・移動にはたいへん苦労した。他人の田を横断して、耕うん機を自分の田に入れる例が多かったからである。

 このことから、田と田を好感して、交換分合を進めようという声が高まってきた。田の質などが問題となったが、小団地化する方が有利であることから、各地区で実施された。

 しかし、この交換分合がスムーズに耕地整理へと結びつかなかった。ここでも砺波地方特有の散居という住まいの仕方が関係している。つまり、大きな区画で整理すると、あちこちにはんぱな土地が生まれてくるからである。他の地域で実施されたような耕地整理をした後、交換分合を行なう手順は通用しないのである。そこで、県や市当局も散居という形態を生かして、交換分合をした後、できる範囲内での耕地整理という逆のコースをとることをすすめた。一部の農家ではあぜをはずし、田1枚あたりの面積を広げ、耕うん機を中心とする機械の能率を向上させた。しかし、多くの地区では本格的な耕地整理は、その後の農業構造改善事業、圃場整備事業による実施を持たなければならなかった。

2兼業化へ

 1955年(昭和30)以降の農村の動きは、農村から都市への激しい労働力の移動と農家の兼業化の進行である。もともと砺波市は兼業化が進んでいた。そのころの兼業は、日やとい、職人、出稼ぎが中心であった。戦後、兼業先が失われ、食料増産の強化もあって、兼業は少なくなり、専業農家が増加した時期もあった。

 ところが、1950年(昭和25)ごろから年々兼業農家が増加し始めた。河川改修や土地改良事業が活発になり、主として土木人夫として働く機会が増えるようになった。また、朝鮮戦争での好景気によって、金属、機械、パルプ、繊維などの工業が活気をみせ、工場に働きに行く人々がふえたことによるものであった。しかし、当時の兼業は日やとい的な不安定なものであった。

 1955年(昭和30)以降、兼業化はさらに進んだ。その背景には、動力耕うん機などの農業機械の導入による農村の余剰労働力の出現があった。

 1955年(昭和30)から1960年(昭和35)まで連続豊作にもかかわらず、比較的農業収入は伸びず、これにひきかえ消費が伸び、農家の支出は年々増え続けた。これを補うために、農家は農外所得を求めて兼業化せざるを得なかった。そして、家族のうちで最も収入の多い成人男子、すなわち重要な農業のにない手から兼業化する結果となった。学校卒業者で農業につく者も減り、農業で働く人は急激に少なくなった。

 その結果、女性、高齢者によって農業がになわれるようになった。じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんのいわゆる「3ちゃん農業」と呼ばれるようになった。やがてこれが、「2ちゃん農業」「1ちゃん農業」となっていった。兼業農家の多くは、他の仕事をしながらも農作業から離れることができず、土曜、日曜はもちろんのこと、出勤前や勤務を終えての帰宅後のわずかな時間も利用して農業をする農家である。

 兼業が進むにつれて、農家経済に占める農外所得の割合は高くなっていった。どの農家も農外収入を増やすことに熱心で、人夫、日やとい、などの季節的な兼業よりも、1年間を通じての安定した勤務先をもつ農家が多くなった。

 このような急速な農家の兼業化は、工業化と密接な関係にある。砺波地方に戦後できた工場が、農村の余剰労働力を積極的に吸収していったわけである。兼業化の進行は、農業、農村の発展をさまたげるものとして心配された。村の会合や事業にも人が集まらなかったり、農村に残る伝統的文化や行事が消えていったりすることが問題となった。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

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