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X−C現代の砺波『のびゆく砺波』1〜3 2014.9.4
1圃場整備と農業の機械化

圃場整備による耕地の移り変わり(小島地区の例)

 日本の食糧事情が安定した昭和30年代後半から40年代にかけて、日本はちょうど高度経済成長期に入っていた。1961年(昭和35)に農業基本法が制定され、農業をとりまく事情も大きく変わり、農業経営規模の拡大と農作業の合理化が急務となった。水田単作地帯である砺波市でも、生産増大と作業の効率化をねらって、土地基盤を改良しようという気運が高まった。当時の水田は、一筆平均3〜5a(アール)と小さく、その形もさまざまであった。農道は車はおろかリヤカーも通れぬくらい狭く、曲がりくねっていた。稲の運搬などは田越しかあぜ道を利用して行なわれ、もっぱら人の肩に頼っていた。用水路も蛇行し、大雨の時には水があふれることもしばしばであった。そこで、1962年(昭和37)の東野尻西部地区を皮切りに、農業構造改善事業に伴う圃場整備事業に着手した。圃場の大きさは、将来の営農の大型機械化を見通して、長辺100m短辺40mの40aのものや、長辺150m短辺30mの45aの大型水田が造られた。道路事情も大きく変わった。主要道路はそのまま拡幅改良されたが、幅3,4mの直線状の農道が縦横に新設され、点在する農家の宅道も同時に拡幅された。その道路沿いに用水路を設け、排水は圃区の中央にとった。このことは、この地方としては画期的な「耕地の革命」であった。

 この大事業は、やがて団体営事業や県営事業として市内各地で進められた。当初、水田の多くが、扇状地にあって、れき層上の耕土が少ないことや圃場の高低が著しいことのため、工事による耕土の損失、水もれが心配された。しかし、建設機械や工事技術の進歩もあって、工法上の諸問題も順次解決されていった。工事を終えて換地の作業に入ると、従来の土地への愛着や換地の位置、個人感情などたいへんむずかしい問題があり、なかなかスムーズには進まなかった。このために、各地区では日夜熱心に話し合いが行なわれた。

 こうして、砺波地区では24年の歳月と142億円という巨額な費用を投入して、1986年(昭和61)までに4900haの水田が大型圃場に生まれ変わったのである。圃場整備が進むにつれて農業の機械化も著しく進み、動力耕うん機に代わりトラクターが普及し、田植えは、手植えから歩行型田植え機をへて今では乗用田植え機となった。稲刈り作業でも、手刈りからバインダーをへて、自脱型コンバインが普及した。もみの乾燥も、地干しから火力乾燥へと変わった。

 一方、国民の食生活の変化もあって米の生産過剰が深刻な問題となり、遂に1970年(昭和45)から米の生産調整“減反”生産が行なわれた。続いて、1978年(昭和53)からは水田利用再編対策として転作の割当制度が開始された。このことは、米作中心の本市農家にとっては大変な衝撃であった。最近では耕地の約20%の転作を余儀なくされ、主に大麦や大豆、里いも、飼料作物などを植え付けている。

 また、圃場整備後の大きな変化は、農家の兼業化がいっそう進んだことである。また、米作りを大規模経営農家にまかせる農家が増えている。それは会社勤めに忙しくて時間のない農家、年寄だけで働き手のない農家、小規模で大型機械を買うこともない農家などである。市では農業機械銀行を設立して、代わって作業をしてくれる人を紹介したり作業料金の相談にのったりしている。整備や機械を大型化して請負(うけおい)耕作をしている農家では、数10haもの耕地を引き受け、会社経営の形態をとるなど近代的な経営をめざしている。このように、圃場が整備された砺波市の農業は新しい形へと姿を変えつつある。

2交通網の発達

 昭和30年代後半から40年代にかけて、日本にもモータリゼーションの波がおしよせ、砺波地方でも自家用車を持つ家が多くなった。車の普及につれて、周辺部からの道路が集まる砺波市街地では交通の渋滞が続き、交通網の整備が必要となった。そこで市街地の周囲にバイパス道路が計画され、まず1963年(昭和38)に国道156号線の東廻りバイパスが開通した。続いて、市街地の南、西、北側に環状バイパス道路が完成して、車の流れがスムーズになった。

 急速な車社会化を背景に、1969年(昭和44)に交通安全都市を宣言し、ふえ続ける交通事故の撲滅を推し進めた。また、国道や県道の拡幅、砺波大橋の完成、太田橋の複線化、南砺スーパー農道の開通など輸送力の増強もはかられた。そして、1973年(昭和48)には、待望の北陸自動車道の砺波・小杉間が完成し、陸の玄関口として砺波インターチェンジができた。こうして、砺波地方もハイウェイ時代の恩恵を受けるようになり、「陸の港」として砺波市は重要な位置をしめることとなった。

 一方、農村では圃場整備を機会に、道路網の整備が急速に進んだ。かつては隣近所を結ぶ大切な生活道であった曲がりくねった里道はほとんどなくなり、舗装された道路が区画整備された水田地帯を縦横に走るようになった。のべ400kmに及ぶ市道の約80%が舗装され、今では一家に自家用車を2,3台持つまでになってきた。また、冬の道路網の確保にも力を注いだ。除雪の機械化や融雪道路化のおかげで、冬でも安心して通勤通学ができるようになった。また、民営のバス路線が次々と廃止されるにともない、1978年(昭和53)から市営バスが運行され市民の足が確保されている。

3産業の育成

 これまでの砺波市の主な産業は農業であった。しかし、圃場整備や農作業の機械化により農家はほとんど兼業化し、その余剰労働力を生かしてさまざまな産業が活発に展開されるようになった。近年、市街地やその周辺では人口が増加し、住宅や商店、工場なども増加しつつある。

 工業面では、1972年(昭和47)に、太田地区の庄川左岸を整備し20万uを造成して企業誘致を進めた。自然環境に恵まれ、地価も安く水も豊富という工場適地であり、現在は19社が操業している。市の工場の特徴は、家具や土石、食料品、プラスチック加工などの工場が多く、金属加工など基礎資源型のものが少ないことである。市ではさらに工業用地の整備を進め、付加価値の高い工業立地や地場産業の振興が図られている。

 商業面では、1968年(昭和43)に都市計画事業が始まり、市街地の道路拡幅と商店街の近代化がすすめられてきている。商店経営者の積極的な努力で、商圏拡大による商業の活性化が図られている。また、1974年(昭和49)には、郊外に広い駐車場を備えた大型店が進出してきた。

 以降次々と大型店ができて買い物客を引きつけており、市内のショッピング事情も変わりつつある。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

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