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8資料 陸で運ぶ、支流で運ぶ、本流で運ぶ(その3) 2015.2.5
コラム 流送夫の家族

反物の流送半纏

流送夫にとって、組の半纏を着て川下げをすることはあこがれと同時に誇りでもありました。
反物で支給された半纏を妻は危険な流送に行く夫の無事を願い、思いを込めて縫いました。

流送夫の聞き取り@

庄川町庄で組を作り、頭として人夫を束ね、北海道や静岡へ流送に行く

流送夫:昭和2年生まれ 尋常小学校高等科を卒業してすぐに流送夫の父とともに樺太へ流送に行く
その妻:昭和8年生まれ 昭和28年に中野より庄川町庄へ嫁入り

 流送夫:この辺(庄川町庄)は親世代は皆流送をしていた。高等科卒業してすぐ(流送へ)行ったけど、親も友達も一緒だから別に(家を離れて)寂しいとかなかった。昭和19年に召集になる前まで樺太には2回、北海道や静岡の大井川で流送をした。皆、舟を操る越中舟夫になりたかったが、特に技術が必要でなかなかなれなかった。戦後しばらくしてまた流送を始めた。昭和30年半ばで北海道(の流送)は終わり、そのため静岡大井川で木の伐採も請け負った。昭和42年で流送をやめた。人夫が(高齢化で)少なくなり、若い人が山に入らなくなった。それにソ連・アラスカから外材が入ってきた。そんな安いものに日本は太刀打ちできなかった。

:中野出身で、となりに住んでいる人が流送夫で年中旅に行ってた(遠くに出掛け、家にいなかった)ので、流送のことはなんとなく知っていた。流送夫との縁談話が来たときに、別に嫌とか思わなく、縁だと思った。(夫は)家には盆と2月、3月しかいなかった。田んぼは姑と2人でした。(夫が)無事に帰って顔を見るとホッとした。北海道では北海道の土産、静岡ではお茶とかみかんとか静岡の土産をたくさん買って来てくれた。

流送夫家族の聞き取りA

中野出身祖父も父も流送夫

女性:祖父の名前が中野村の出稼ぎ組合名簿の中にあった。祖父も父も流送をしていた。父は明治30年代の生まれ。父は北海道や樺太に行っていた。帰ってくるとニシンを俵ごと買ってきた。私が田んぼの手伝いをやらされていたとき、そのニシンを肥料にしていたのを覚えている。

流送夫家族の聞き取りB

庄川町三谷出身 誘いを受けて流送夫に

流送夫:昭和6年生まれ 農家の長男。戦後、中学校卒業後少し経ってから5,6年流送をする。

流送夫:戦後であまり仕事がなく、家の農業の手伝いをしていた頃(19歳)、誘いを受けて流送に行った。自分は流送夫の中で一番若かった。流送は命がけの仕事だった。鉄砲水して、木を流して、ひっかかった材木をなおす(流れに戻す)ために木の上をひょいひょいと飛んでいく。そこで足を踏み外して落ちて、流されたりして目の前で何人も死んだ(のを見た)。仕事は朝6時頃起きて、ごはんを食べ、8時ちょっと前に仕事に行って、昼は弁当。飯ごうにごはんとおかず(北海道は必ず秋あじ(鮭))が入っていた。仕事はキリの良いところや日の入など、日によって変わった。三輪のトラックが(材木を)輸送するようになり、うつらうつらと流送の仕事が減っていった。その頃結婚したので、このままでは(いけない)と思い、左官に弟子入りして左官になった。結局流送をしたのは独り身の若いころの5,6年。仕事はキツかったけれど、お金がたくさんあたって(もらえて)よかった。


【砺波郷土資料館『流送に生きた人々展示図録』平成26年より抜粋】

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