1 内島(うちじま)
・ミヤノセドノタ(宮の背戸の田) 古来より、村のお宮さんの背戸のうしろ側に田5畝歩あったが、ほ場整備により南北の農道ができたので2畝歩となる。
・フルヤシキ(古屋敷) 昔数軒の屋敷があり、庄川が流れ込んだために流されて人家は東開発、下中条の中に入り、その地名が残った。((新)216)
2 東開発(ひがしかいほつ)
・ショウズダ(清水田) 周囲の田より段差があり、耕土が浅いので地下の水が湧いて出たため、この名ができたと聞いている。(197・198)
・シンビラキ(新開) 昔からの言い伝えでは、こつこつと開かれた田でなかろうか。(189)
・イサカイダ(いさかい田) 40〜50年前、地主と近くの田の主が大げんかしたといい、その頃よりいさかい田というようになったという。(216)
・マクノウチ(幕の内) 古くからある名で、般若郷のあとでもあったのか。東保・西保の真中にあり少し高い所があって、庄川が流れ込んでもそこだけが流れないで小さな田4枚が残っており、幕の中にあるということで幕の内という名が残ったとされている。(167〜170)((新)296〜297)
・シンミヤジマ(新宮島) 昔、古い宮の祠があった跡(庄川が氾濫したためか?)で、明治のころまでその地名が残っていた。(415)((新)254・255)
・カンナダ(かんな田) 雷の通り道でもあったのか。昔も今もよく雷が落ちたことがあったため、雷田が訛ってかんな田という地名が残っている。((新)219)
・ゴロベサヅクリ(五郎兵衛さ作り) 五郎兵衛という人の持田で、喜田弥一郎が明治時代に買い求める。昭和23年に引き継いで耕作する。(15・16・17)
・ハッツァブサマエ(八三郎さ前) 喜田新一前の田。(443)
・ヤキッツァノシタノタ(弥吉さの下の田) 中嶋正治宅の旧屋敷跡の田。(370)
<中字>
・上開発(かみかいほつ)(集落)
大字に詳述の通りであるが、柳瀬の多くの集落が20数戸であったので、県道坪野―小矢部線で便宜上、上開発・下開発と称して分割、各種役職等の振り分けを便にしたものであろう。
・下開発(しもかいほつ)(集落)
上記上開発の項に記した通りと考えられる。
・やかん島(集落)
新しい分家ばかりが堤防のすぐ下に軒を並べて建てられたところで、その中の何軒かの人の中で頭の禿げた人が多かったのと、短気な人が多かったことなどもあり、やかん島と呼ばれるようになったという。((新)163・172〜177・185・197〜201)
・ナカスジ(中筋)(集落)
東開発の中心をなす一帯で、最初の分家などができた所であり、庄川の流れと関係が深く、本家を守る防流堤の役目も果たした所である。((新)71〜103)
・セドスジ(背戸筋)(集落)
東開発の最初に開拓した人達が多く並んでおり、少々高台になる所である。従って、本家の人々が並んでいる所である。今では一番後(西側の列)になったので背戸筋といっている。((新)4〜53)
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