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2古くひらけた村の新しい村(その1) 2016.9.30
古い村新しい村

現在、庄川町に置ける大字数は、旧東山見校下10(うち山方地区九)、旧青島校下2、旧雄神校下2、旧種田校下5、合計19である。これらの大字名は、そのほとんどが江戸時代(近世・1570年代〜)における村名がそのまま残されたものであるといえる。別表で示すように、近世初期の元和5年(1619)には、青島・種田両地区いずれも村立て(むらたて)がなされておらず。21年後の寛永17年(1640)になって、およそ現在に近い村々がそろった。このように近世以降にできた村を『新しい村』、その前に出来た村を『古い村』としてこれから記述する。なお、表中の元和5年における各村々の戸数には、藩に年貢を納めていない百姓は除かれている。(『利波郡村々家高ノ新帳』による)

1壇ノ城とその城下

まぼろしの木波村



「木波(きなみ)」の地名は、庄川町に古くから住んでいる人にとっても耳慣れないものであろう。というのも、加賀藩の史料としてよく知られた『加能越三州地理志稿』にも、すでにその名は見えないからである。この書の克明さには、たとえば金屋岩黒村の小川原・田畑・岩黒といった小字名まで書上げていることからも容易に推測されるのであり、「木波」の地名が小さいために記載漏れになったとは考えられない。

 では、木波村(郷)はどこにあったのであろうか。この地名が初めてみられるのは、前述した天平宝字3年(759)の『砺波郡伊加留岐野地開田地図』であり、そのなかに「木波道」がやや南北に縦断している。また、神護景雲元年(767)の『砺波郡井山村墾田地図』には、その南端に「往木波村道」が記され(往は至の意)、同じくその道は井山村を南北に縦断している。この2庄を南北に貫く中央道の名称に用いられた木波村は、当時として相当に大きな集落であったと考えられる。享保2年(1717)ころの『金子家文書』の記録のなかに、「天文年中(1532〜1555)の末ごろまで、庄金剛寺村の古城、つまり壇ノ城の西の真下に“木波町”があり、その西に弁財天、そのまた西に雄神神社があった」という。

 また、この木波村を中心とした「木波郷」が一時呼び名され、近世の初め頃まで用いられていたことを物語る史料が寺院の軸物の裏書などにみられる。それによると「木波」は「木並」とも書かれ、「砺波郡雄神庄木並郷光教寺」などの表記もみられる。この木波郷の郷域には湯山村も入っていたようである。

 これらのことから、木波村は、現在の雄神地区の庄部落をさすのか、あるいは、庄川の数回にわたる氾濫で流出され、現在、その河床となったものか。それは未だに実証できない。庄川の氾濫については雄神神社の歴史で述べたように、庄川は、その古名を「雄神川」と呼ばれ、古くは、その主流が井波・高瀬・津沢など西方面へ流れていたから、当時木波村は庄川の水害に影響されなかったのであろう。

 この木波村には京都本願寺の有力門徒である木並光順がいたことが、同寺十世証如上人の『天文日記』にみられるほか、南砺の雄、石黒又次郎が、木並(波)郷「常遠」の田地のうち一部を、日蓮宗長寿院に寄進していたことが明らかにされている。いずれにしても、この木波村の消息は悠久の流れ、庄川のみが知っていることかもしれない。

   

壇ノ城の盛衰



雄神橋の東詰、庄川に迫る壇ノ山に、その名も「壇ノ城」と呼ばれる城跡がある。この城は庄村の高台にあるので「庄ノ城」と称したともいわれる。この城について、前述の『金子文書』に、その規模は長さ50間(約91メートル)、横48間(約87メートル)で、天文年中(1532〜)には石黒与三右衛門
(与左右衛門カ)が居城したとされている。

  現在、前述の木波町は不明であるが、城址の南方(上流側)に「上町」、北方に「鉄砲町」などが小字(こあざ)名としてのこっているほか、城址付近には「台所屋敷」、「馬駈馬場」、「馬蹄岩」などの遺名が残されている。かといってこの地に近世にみる城下町を想像することはできないが、前述のごとくかなりの家並があったことであろう。

 壇ノ城址からさらに1.5キロ余り奥に入った三条山(標高334.5メートル)の一画に『千代がためし』という地名があり、ここに本丸があったと言われている。南北朝の内乱の一コマを彩った千代ヶ様(ちよがためし)城がここであり、壇ノ城と同一でないとの説や、壇ノ城・庄ノ城・千代ヶ様城三所一跡との説もあった。近年、専門家の調査で千代ヶ様城の従来知られてなかった位置・規模。形式など新事実が明らかになった。それによると、壇ノ城(庄ノ城)を平時の居舘(きよたち)とみなし、千代ヶ様城を戦時における詰(つめ)の城とみる、いわゆる一城別郭(かく)式の城郭であるという。

 したがって、壇ノ城は城としての形式は整っておらず、千代ヶ様城はかなりの要害の地にあり、中世の典型的な山城で、砺波平野を一望出来るなど好条件が整っていた。築城年月は明らかでないが築城形式からみて南北朝時代(1332〜)のもので、砺波平野では、井口城・野尻城とともに、桃井直常(もものいただつね)の一大拠点であったといわれている。

 この壇ノ城などが、南北朝の抗争で軍忠記などに名前が出てくるのは貞治元年(正平17年・1362)、幕府から越中守護職(領主のもとで軍事と警察権を任された武将)に任じられた斯波義将(しばよしまさ)が、かつての守護職桃井直常の一大拠点であったといわれている。

 時代は下って、戦国時代末期、織田勢・上杉勢に、佐々成政、地元の神保・石黒一族にさらに瑞泉寺など一向宗徒などが入り乱れて争ったが、天正8年(1580)、庄城主石黒又次郎は、初め神保長住と手を切り上杉方に味方しようとしたが、情勢の変化で、それまで反目していた同族の石黒左近蔵人(木舟城主)と和睦し、さらに神保氏とも組んで織田方となった。なお、前述の『金子家文書』に出てくる石黒与左右衛門は、石黒左近の家老である。そのほかにも、数回の兵火にかかり、陥落・再建・陥落を繰り返したであろう。



【榎木淳一著 村々のおこりと地名<地名のルーツ=庄川町>昭和54年より抜粋】

  

 

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