砺波散村は、早くから研究者に注目され、研究の対象となってきました。日本の大学の中で、最初に設置された地理学講座の教授であった京都帝国大学の小川琢治は、早くも1914(大正3)年に砺波散村についての論文を発表しました。
その論文は、農家が点在する状況やカイニョに囲まれた屋敷に注目して、そのような景観が成立した背景についていろいろな推定を巡らしています。また、網の目状に多くの水路があって、どこでも水が得やすいことや、フェーンの強風に対する備えなどについても述べられています。中でも、東大寺の正倉院に伝わる8世紀の東大寺開田地図の中に「孤立荘宅」を想定させる表現があることを指摘して、砺波散村の起源が古代にさかのぼると考えました。
これに対して、牧野信之助は、砺波散村が17世紀以降に加賀藩の政策によって成立したものとする論文を発表しました。特に、近世になって開拓された地域の史料に注目して、小川琢治の推論に反論しました。その後、村松繁樹はさらに詳細に検査を行って、小川が注目した各種の自然条件が複合して砺波散村の形状に結び付いたとしました。牧野の考えを、新村に限定されるプロセスだとしてこれを退けたことになります。
村松繁樹は、自らが主宰する大阪市立大学地理学教室としても砺波平野の共同調査を進めました。この一連の調査には、村の中の親族や共同組織などの社会生活の面を取り扱ったものが多かったのが一つの特徴です。調査者の一人であった水津一朗は、一族の人々による開拓の過程と村落の形成の過程を一つのモデルとして取り出すことに成功しました。
このように多くの研究成果が生み出された砺波散村は、典型的な散村の例として教科書にもしばしば採り上げられることになりました。散村の起源や展開過程を巡る研究はその後も進み、さらに、圃場整備や工業化・モータリゼーションの振興に伴う農家の兼業化など、砺波散村の変化についての研究も数多く進められてきました。砺波市立の砺波散村地域研究所が設立されて、全国でも貴重な存在として活動を続けているのも、このような背景が一つの大きな理由です。
2014.11.26F−2これからの散村
2014.11.26F−1これからの散村
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