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6(1・2)屋敷林の現状 2014.10.10
(1)住む側からみた屋敷林

アンケート調査結果

 屋敷林に住む人が、散居村や屋敷林をどのように思っているのだろうか。実際に、散居村は住み良いと考えているのだろうか。屋敷林もあるほうが良いのだろうか。このことを知るため、砺波散村地域研究所では平成11年秋、砺波平野の7カ所を選んでアンケート調査を行った。

 「散村での生活が良いと思われますか」の問いに、「はい」・「いいえ」で答えてもらったところ、81.7%の人が「はい」と答えている。性別では男性が85.1%、女性が77.5%となっている。女性の役割がやや低いが、全体では8割以上の人が散居村での生活が良いと答え、おおむね現在の生活に満足していることがわかった。

 住み良い理由としては、「隣と程よく離れているのでよい」「身近な自然に囲まれている」「空気がきれい」などの項目に「はい」が多かった。逆に住みにくい点は、「宅道の除雪が大変」「宅地が広くて手入れが大変」「老人や子供の交通手段が十分でない」などである。

 「あなたの家に屋敷林がありますか」の問いには、全体の67.3%が「はい」と答えている。しかし、地域によって違いがあり、福光町経塚(土生新)では81.7%と高く、福野町田尻では60.2%で調査集落の中では最も低かった。一般に、砺波平野の北部より南部、都市近郊より都市から離れた所のほうが屋敷林が多く残されて庄川町五ケでは58.8%、砺波市荒高屋では50.9%が「はい」と答えている。家の改築や庭の整備、そのほかで屋敷林が年々姿を消しているのである。

 屋敷林を育てていくことについて、「従来通り家族で育てて行きたい」に77.4%の人が「はい」と答えている。しかし、屋敷林を育てていくには悩みも多い。その主なものとして、「技術や労力が不足している」が62.7%、「経費がかさむこと」が51.4%と、技術や労力の不足、経費がかさむことへの悩みを多くの人が感じている。そのため、「公的な援助が望ましい」と51.3%の人が思い、また「将来縮小する」だろうと思っている人が50.5%に及んでいる。これらの意識は、地域や年齢によって差があり、公的援助を望むのは、庄川町五ケ、砺波市小島、同荒高屋で、それぞれ70%から60%の高率となっている。また、将来縮小の意識が最も高いのは、20歳から39歳までの年齢層で66.7%で、高年齢になるに従い下がり、70歳から79歳では40.0%となるが、80歳以上では再び高くなって53.3%となっている。体力や気力が衰えた80歳以上の年齢層は、公的援助を望む人も90.9%を示し、高齢者が屋敷林のことを負担に感じていることがわかる。

 屋敷林の持つ意義としては、「緑の環境として大切」が全体で84.2%が同意し、屋敷林は散村の「景観要素」とする人も78.3%であり、いずれも屋敷林の意義を十分認めている数値である。また、屋敷林の将来については、「屋敷林は残すように努力が必要」に同意する人が全体で58.6%で、残さねばならないと考えている人が5割を超えている。しかし、一方で「屋敷林は減少しても仕方がない」に同意する人も50.9%となっており、現状では将来衰退すると考える人も多い。

 この調査でわかったことは、散村に住む人々の多くは散村の生活は市街地などに比べて住み良く、屋敷林も大切にしなければならないと感じている。しかし、住宅団地の進出など地域が激しく変化している現実から屋敷林を残すには公的な援助や住民自身の努力が必要であると思っている。また、減少しても仕方がないと感じている人もある。

(2)少なくなる屋敷林

 昭和30年代(1955〜)前半までの砺波平野の農村の生活は、屋敷林とともにあった。当時は一般に、生活の行動範囲が狭かったので、屋敷林の中で自給自足の生活を営むことができ、そのための工夫が蓄積されていた。ところが、昭和30年代の後半からわが国の産業・経済の変化が砺波地方の生活様式をも急変させ、屋敷林とのかかわりも次第に薄れることになった。

 カヤぶき屋根は瓦ぶきに、窓や戸はアルミサッシに変わり、冷暖房施設が普及し、薪炭燃料は電気、プロパンガス、灯油に変わった。また、生活や農作業の道具などもアルミやプラスティック、ポリ製品に変わり、篭、竿、ほうきなどの生活用品も屋敷林の竹に頼る必要がなくなった。加えて、古くから屋敷林に取り入れられてきた果樹類や山野草の栽培も流通機構の発達によって、四季を問わず簡単に手に入るようになり、そのような果樹などとの関係も疎遠になった。

 屋敷林として育った数十年以上の主木は建築材として使用されてきたが、外材輸入の急増によって採算や利用効率で対抗できず、見向きもされない状況になった。このようになると、屋敷林は急速にその必要性を感じた。それどころか更に、強風時には木が倒れ家の屋根を破損したり、落ち葉の始末が大変だといったことから逆に有害なものと考えられるようになってきた。

 昭和40年代(1965〜)後半から各地で圃場整備事業が導入され、不整形な屋敷の整理やあぜに囲まれていた川の改修、農道の整備などが行われた。用排水路はU字溝を敷設したり三方コンクリート造りとなった。これによって地下への浸透水が減り、遊水区域もなくなった。地下の水枯れからかつての屋敷林の主木であるスギの立ち枯れが急増したし、マダケの開花、そして枯れ死減少も起こった。

 昭和30年代後半から通勤兼業が増加し、各戸の新築・増改築が進み、車庫・農作業場の新築が盛んになった。これは宅地内での新たな建設であり、屋敷林の伐採が進んだ。


【砺波散村地域研究所 『砺波平野の屋敷林』平成8年より抜粋】

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