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3五箇山の交通 2014.11.11
T近世以前

砺波平野への峠とそれを利用した村々(大正初め)

1峠道

 谷口集落は河川が平野部に流れ出る扇頂部に立地する。庄川においても地形的には扇頂部の砺波市庄川町周辺が谷口集落なのだが、ここは必ずしも上流部の五箇山との交易で栄えた町ではない。それは庄川があまりに深い渓谷を形成したため、平野への出口付近である砺波市庄川町湯山付近から南砺市利賀村杉谷付近までは庄川に沿った道路がなかったことが大きな要因と考えられる。その結果、五箇山から砺波平野に抜けるには、庄川に平行に下るのではなく、高清水山系の山々を登り、その峠を越えるのが一般的な道であった。五箇山では米の生産が行われていなかったため、煙硝・紙・生糸などの換金商品を搬出し、米や生活物資を搬入した。これらの物資は、人の背や牛の背に頼るほかはなかったのである。

 五箇山から砺波平野へ抜ける峠はいくつかあるが、どの峠を使うのかは図1のようにおおよそ地域によって決まっていた。いちばん南の小瀬峠は赤尾谷および飛騨白川の村々が、その北にある朴峠は上梨谷と下梨谷の南の村々、さらに小谷の下出・夏焼・高草嶺、山の神峠を越えて坂上・阿別当などの利賀谷南部の村々と多くの村々が利用した。その北の杉原峠は下梨谷の杉原と祖山など小谷の中央部の村々が利用して、それぞれ城端町へと下っていった。また、北側の栃原峠は小谷北側の栃原周辺の村が、杉原峠は仙納原・北原・高沼などのいわゆる口山の村々と大豆谷以北の利賀谷の村々が利用し、井波町へと下っていった。そのため、現在でも五箇山との人的・経済的なつながりは、旧平村・上平村と旧城端町、旧利賀村と旧井波町という組み合わせが見られる。

 現在、これらの峠道のうち、いくつかは中部北陸自然遊歩道として整備が進められている。

南砺市林道(城端)〜南砺市上梨(平)の11.6kmは「朴峠牛方をしのぶ石畳のみち」、南砺市入谷(平)〜南砺市利賀村阿別当(利賀)の10.8kmは「山の神峠こえのみち」とコース名をつけ、富山県のHPに掲載している。


2籠ノ渡

 五箇山は石川県の能登島とともに加賀藩の流刑地として、江戸時代には罪人が送られてきた。罪人の逃亡を防ぐため、流刑地はすべて、田向・大崩島・祖山・大牧など庄川右岸の村々であり、そのため川には橋が架けられなかった。両岸の往来には「籠ノ渡(かごのわたり)」が利用された。五箇山には13ヶ所の「籠ノ渡」があったといわれている。「籠ノ渡」は五箇山だけではなく、神通川や黒部川、常願寺川などでも利用されていた。

 利賀谷も含め、庄川右岸からは煙硝などの物資を運ぶために峠を越えるためには、必ず「籠ノ渡」を使わざるを得ず、人だけでなく牛もこれにより渡河し、暴れて落ちる牛もあったという。加賀藩の政策により架橋を禁じられたため、右岸の人々はおおいに難儀することとなった。

 なお、五箇山において、初めて庄川に橋が架けられたのは1875(明治8)年に水上善治によって下梨・大島間の鎖橋が最初である。

U近世以降

1細尾峠

 朴峠越えの道は冬季には雪崩の危険が高く、きわめて危険な道であった。朴峠から城端に下る「横渡り」で雪崩に遭い流されると、春になって雪が解けても人も荷物も出てこないことから、その谷は「人喰谷」と呼ばれた。この難所をさけるため、1883(明治16)年に平村の水上善治らの尽力により、新道の工事が始まった。この道は道谷新道と呼ばれ、梨谷から梨谷川沿いに細尾峠(740m)に至り、その後は尾根沿いに城端側の上田(小瀬峠越えの拠点)へと一気に下るもので、雪崩の危険を大きく減じることができるものであった。この道は4年間の歳月をかけ、1887(明治20)年に完成した。これにより、下梨から細尾峠までと城端から上田までは馬車が通り、上田−細尾峠間だけ人力で運べば良くなった。自動車道が完成するまで約40年間、五箇山と城端の幹線道路として多くの人々や物資がこの道を通っていった。冬季に郵便物を運んだ五箇山遁送隊が活躍したのもこの時期である。

2城端八幡道路

 1932(大正7)年、五箇山へ自動車を通すために城端と郡上八幡を結ぶ城端八幡道路期成組合が結成された。県・国への熱心な陳情の結果、1953(大正10)年に城端町の大・屋から工事が開始され、1927(昭和2)年に完成した。ちょうど庄川の電源開発が始まった庄川上流のダム開発もあって改良が重ねられ、1935(昭和10)年には城端―下梨間に乗り合いバスが運行された。さらに戦後の1953(昭和28)年には城端―成出間に加越能バスが、金沢―下梨間には国鉄バスの運行が始まった。しかし、道路整備がいくら進んでも、以前として冬期間は積雪や雪崩の危険から道路は封鎖され、五箇山は陸の孤島であった。

3空中索道

 大正末に祖山ダムが着工され、セメントを始めとする大量の建設資材の運搬が必要になった。この運搬に大きな力を発揮したのが架空索道である。中越鉄道城端駅から高清水山系を越え、平村渡原へ、そして庄川沿いを祖山へとケーブルを架線し、バケットにセメント樽やアングル材などの比較的軽量物を輸送した。さしずめ、スキー場のリフトに荷物を積んで谷越え山越え、延々とダム造りのセメントを運んだものといえる。冬季には郵便小包を運んだり、緊急時には病人の運送にも使わせたらしい。この索道は庄川沿いの渡原から上流へも分岐され、その後のダム建設の資材を運び、昭和30年代まで活躍したが、その後撤去された。限られた期間ではあるが、五箇山と城端を結ぶ重要な手段であった。残念なことに、現在、架設に使われた鉄塔がさび付いた姿を数カ所で残しているのみである。

4庄川水運

 昭和初期の小牧ダム・祖山ダムの完成により広大なダム湖が出現した。これにより実現したのが船便である。小牧ダム付近の小牧堰堤発着所から祖山船着場へ。ここで下船し祖山ダムサイトの祖山ダム船舶発着所から杉尾船着場、大崩島船着場、渡原船着場、下出船着場、猫の倉船着場を経て下梨船着場に到着した。しかし、次第に土砂の堆積などで船舶の遡航が困難なところも出始め、戦後は上流部はささ舟に乗り換えなくてはならないなどの不都合が生じた。しかし、冬季の安全な移動手段としては唯一のものであり、物資の輸送も含め、五箇山の人々にとっては生命線であった。この船便は国道156号線の冬期除雪が実施可能になった1979(昭和54)年まで存続した(小牧―祖山間)。現在は小牧ダム―大牧温泉間にその名残を見ることができる。

5五箇山トンネルと東海北陸自動車道の開通

 1970(昭和45)年には下梨―金沢間が国道304号線に昇格して、道路整備にいっそうの弾みがついた。1979(昭和54)年、五箇山の人々の思いを込めて五箇山トンネルが着工した。5年の歳月を経て1984(昭和58)年3月10日に開通。全長3072mのこのトンネルにより、国道304号線は冬期間も通行が可能となり、五箇山は「陸の孤島」から解放された。これにより、五箇山から城端への利便性が増大しただけでなく、多くの観光客が訪れた。また、五箇山から平野部への通勤が急増した。

 2009(平成12)年には城端トンネル・袴腰トンネルの完成により、東北自動車道が五箇山インターチェンジまで延伸された。これにより、福光インターチェンジから15分弱で結ばれることになった。さらに2008年(平成20)年には飛騨トンネルの完成により、東海北陸自動車道が全線開通し、多くの観光客を迎えることとなった。

【第56回歴史地理学会大会実行委員会 砺波市立砺波散村地域研究所 巡検資料『五箇山から砺波へ』2013年より抜粋】

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