1利賀村の地域概況と歴史
富山県の南西部に位置し、岐阜県と県境を接する。2004年11月1日に、福野町、城端町、平村、上平村、井波町、井口村、福光町とともに市町村合併して南砺市となったため、行政区としては現存しない。一帯は大きく庄川、利賀川(庄川支流)、百瀬川(神通川支流)の3つの河川が流れ、このうち、利賀川と百瀬川の2河川に沿って小規模な集落が点在しており、椿・藤井(1957)によって、大きく草嶺地区(栗當、高沼、仙野原、利賀川沿いの草嶺、下原、栃原、北原、庄川沿いの大牧)、利賀地区(北豆谷、利賀、岩淵、上畠、坂上、阿部当)、大勘場地区(田島、中口、千束、大勘場、水無)、百瀬地区(菅沼、谷内、入谷、島地、中村、上百瀬)に分類されている。村内には中学校と小学校が各々1つあるものの、高校はない。
利賀村は村域の96%にあたる17,059haが山林で、五箇山の最高峰である入形山(1,724m)を筆頭として、標高1,000mを越える山々は平均傾斜20度以上の急峻な勾配をもち、谷を穿って深い渓谷地形をなしている。また例年、11月から4月上旬までは雪に閉ざされ、積雪量は時に3mを越す、県内屈指の豪雪地帯でもある。
村内の集落は、この2河川によって形成された山麓の僅かな緩斜面に点在するが、流域間は山塊に遮られ、同じ村内でありながら別流域へのアクセスは困難を極める。かつて唯一の経路であった峠道に加え、1969(昭和44)年にようやく利賀村中心部(岩淵)と百瀬川を結ぶ楢尾隧道が竣工し、アクセスが改善された。急隧道は幅3.0m、高さ3.2mの素掘りで、退避スペース以外では離合も不可能であったが、1988年には片側一車線の新楢尾トンネルが開通し、現在はこのトンネルが村としての一体性を保っている。(第1図)
古くは平家の落人伝説に端を発し、その厳しい地勢から、近世には加賀藩の重罪人の流刑地となり、軍事機密でもある硝煙の生産地となることで一層その地理的な隔絶性は高まることになった。地図上に初めてその姿が出現するのは1825(文政8)年のことで、1819(文政2)年に加賀藩から越中・加賀・能登(加越能三州、富山・石川県)の測量を命じられた石黒伸由によって作図された『越中四郡村々組分絵図』の一部としてである(第2図)。伸由は3年半かけて領内を測量し、群単位の郡図10枚を文政7年までに完成させ、翌年には国図3枚、三州図1枚を作成した。絵図はおおよそ7万2千分の1の縮尺で描かれている。石黒は和算に優れ、測量技術にも熟達していたため、絵図の位置関係は非常に正確であった。加賀藩の領内に限られてはいたものの、同時代人の伊能忠敬が作図した海岸線の測量図とは異なり、彼の絵図は内陸の測量図であり、今日では全国的にも先駆的な測量図だったとされる。
恐らくは戦後まで大きくは変わっていなかったであろう彼らの厳しい生活の一端は、終戦後間もなくこの地を訪れた民俗学者たちによる「耕地は部落の周邊には少なく、2〜4kmの山中に在り、その耕作と山菜の採集が主な仕事で、山村でありながら山林業は自家用を滿たすにすぎない。米、粟は自らを滿たすに足らず、トチ、栗の實で補い、足らざるは移入して、その代金は山菜(ぜむまい、なめこ)の牧入によって主に償っている。從ってぜむまいやなめこ採り、とち、栗の實拾いには一家總出で當り、山中に幾日も小屋泊りする始末、女も山地を歩くこと平地を歩くに等しい位である」「村の約9割以上が山林で、耕地はわずかに山腹に散在する程度であり、交通も最近迄殆ど開けず、食は自給自足に足らず、足らざるを補うための山や林の仕事を續けて來た所。從って男女の仕事の差は殆どなく、同程度の耕作や山仕事に從っている」(椿・藤井 1957,pp.1-3)との記述からも、容易に窺い知ることができる。
2基幹産業としての林業
村内の96%を山林が占める地勢からも明らかな通り、林業は古くから利賀村の基幹的な産業であった。その近代的な組織化は1943年4月に利賀村森林組合が発足することによって始められ、当初は主として木炭の出荷を業務としていた。そのあと、1962年には村有林で公団造林を進め、保安林の改良事業やなだれ防止林の造成、県の造林公社からの分収造林など、治山・分収造林事業が組合の中心的な事業となった。
市場取引の国際化に伴う大幅な木材価格の下落や、都市部への若年層流出に伴う過疎高齢化によって、林業は全国的にも衰退傾向にある。一般的には、生産流通プロセス全体をコストダウンすべく林業活動の労働集約化をすすめ効率を上げることで、林業の衰退を抑制する工夫がなされる。そんな中、利賀村森林組合はごく近年までこうした広域的な合併を退け、地域密着の組合を維持する戦略をとっていた(大成1996)。前述した県発注事業により、事業利益は県内では極めて高水準であったことが背景にあったものと思われる。
大成によるとこのほかにも1993年に村役場で始められた利賀村青年山村協力隊事業が報告され、同年に8名もの入村者があった。しかしながら現在は、砺波、五箇山、高岡地区、氷見市の富山県西部の4森林組合との合併(2008年10月1日)により、『富山県西部森林組合』の利賀支所となって現在に至っている。
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