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6庄川の電源開発 2014.11.25
T小牧ダム・小牧発電所

1浅野総一郎

 「おお黄金が流れる、黄金がながれている」1912(大正元)年に庄川の堤防にたった浅野総一郎が発したことばとされている。浅野総一郎は1848(嘉永元)年に富山県氷見郡藪田村(現富山県氷見市薮田)に生まれた。1871(明治4)年、24歳の時に事業に失敗し、逃げるように上京。露天の水売りを皮切りに様々な事業に手を染めた。その事業の一つであげるように上京。露天の水売りを皮切りに様々な事業に手を染めた。その事業の一つである石炭・コークスをきっかけに生涯の恩人となる渋沢栄一と出会い、支援を受けることになる。1884(明治17)年に渋沢の推薦を受けて官営深川セメント工場の払い下げを受ける。これがセメント王・浅野の基礎となる。その後、京浜工業地帯の埋め立てなどにより、浅野財団を築き上げる。

 浅野総一郎が故郷の富山で2つの巨大事業にチャレンジする。ひとつが電気製鉄株式会社(現在のJFEマテリアル)の設立と新湊運河や高岡・伏木運河の開削と同時に放生津潟を埋め立てて伏木・高岡・新潟に一大工業地帯をつくること。そして今ひとつが庄川での巨大ダム・発電所の建設であった。

 浅野は1916(大正5)年に庄川の水利使用許可を出願する。この計画は現在のこまきダムの上流1,800mの地点(現在の南砺市利賀村仙納原付近)にダム式発電所を計画するものであった。その後、設計を委託したアメリカ人技師らの進言で現在の位置に計画が変更され、1922(大正11)年に認可を受けた。建設場所は東礪波郡東山見村小牧と同村湯谷の間で、高さ260フィート(79.2m)、長さ935フィート(285.9m)のわが国最初のコンクリート重力式の高堤防を建設することになった。発電所は最大出力44,800kw(後に72,000kwに変更)、東洋一の大ダム・発電所である。

 しかし、浅野は同時に群馬県の吾妻川でも発電事業を行っていた。(関東水力・佐久発電所)こともあり、巨大な建設費(3,200万円)の確保に苦労する。さらに1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災により浅野財閥は大きな被害を受ける。そのため、小牧ダム・発電所は起工式が行われていたものの、本格的な着工がなされずにいた。

 これに困ったのが、電力を購入することとなっていた日本電力である。そこで、日本電力は浅野側と協議し、浅野の持ち株の半数を譲り受け、庄川水電は浅野財閥系企業から日本電力の傍系会社となって再出発し、1925(大正14)年の雪解けを待った4月にいよいよ本格着工となった。

2小牧ダム・発電所

 庄川本流を初めて堰き止めた小牧ダムは、曲線重力式可動堰型コンクリート造の重力式ダムである。ダム堤は直線ではなく、優美なアーチ型を呈している。堤高79.25m、堤長300.84mで17門の排水ゲートを持つ。使われたセメント総量は91,800t、もちろん、全て浅野セメントである。セメントなどの大量の資材運搬用に加越線青島駅から専用軌道が敷設された。この軌道はダム完成後には庄電軌道として流木運搬に使われたのだが、青島から「東洋一の大ダム」見学の観光客の輸送にも活用された。

 発電用水はダムサイト左岸の取り入れ口より取水され、約1.5km下流の小牧発電所へと導水されている。4本の高圧水管を流れ落ち、72,000kwの電力を作り出した。1999(平成11)年〜2006(平成18)年の大改修により、現在は85,600kwとなっている。

 小牧ダムには流木を越堤させるための流木コンベヤーがあり、ダム湖を筏で引かれてきた木材を左岸ダム下流まで運び、そこで貨車に積み、専用軌道で二万石用水取り入れ口付近で再び川入れしていた。現在も左岸近くのダム湖に当時のコンベアー跡が残る。

3庄川流木問題

 庄川は古来、用水や漁業だけではく、上流の山地で伐採された木材の輸送(川流し・流木)にも広く利用されていた。この庄川の流れを堰き止める小牧ダム・祖山ダムの建設は流木業者に大きな影響を与えることになるため、彼らは建設に大反対した。伝統的な地元産業(平野増吉の飛州木材)VS近代的な大手資本(日本電力)という対立構図は当時の新聞などの報道機関の注目を集め、国をも巻き込んだ訴訟合戦に発展した。また、地元では暴力行為を含む両者の対立となり、庄川流木問題として世間の耳目を集めた。  小牧ダム・祖山ダムとも流木の越堤、ダム湖の輸送、湛水地区以外の輸送での付帯設備を設置し、電力側が責任を持って木材輸送を実施することとなった。しかし、ダム建設に伴う道路設備が進み(いわゆる百万円道路など)、トラック輸送が可能となっため、流木はしだいに行われなくなった。

4祖山ダム

 祖山ダムは小牧ダムとほぼ同時期の1919(大正8)年に大同電力により水利権が申請された(後に久原鉱業と共同出資の昭和電力に水利権を委譲)。小牧ダムに1ヶ月遅れの1930(昭和5)年12月に発電を開始した。  祖山ダムは堤高73.2m、堤長132m。セメントなどの資材運搬には城端からの索道が使われた。建設工事には朝鮮半島から多くの労働者も参加していたらしく、ダムサイト右岸の小山の上にダム工事で命を落とした労働者の慰霊碑には日本人だけでなく、朝鮮半島出身者と思われる名前も刻まれている。  ダム下手の右岸に祖山発電所がある。最大出力は54,000kw。旧平村下梨の地主神社境内には祖山ダム建設による住民補償の一環として、村民に電灯一燈を無償で提供する事を記した碑が建っている。

 1961(昭和36)年に庄川最上流部に巨大な御母衣ダムが完成したことにより、1967(昭和42)年に新祖山発電所(68,000kw)が増設された。祖山発電所の構内には大同電力を率いた福沢桃介の銅像が建っている。

5庄川合口ダム・中野発電所

 小牧ダム・祖山ダムの完成に伴い、上流からの土砂供給が停止し河床低下により農業用水の取水が困難になることが予想された。その対策として建設されたのが庄川合口ダムである。左岸8用水、右岸3用水の合口化には様々な権利が錯綜し困難を極めたが、1935(昭和10)年に工事に着手し、大戦直前の1939(昭和14)年に堰堤が完成した。

 このダムの左岸幹線用水路の水を利用して作られたのが、中野発電所である。幹線用水は農業用水なので水利権は農家側(用水組合)にあるのだが、この水を発電に利用されることにより電力会社から利用料を得て、それを用水の保守・整備費にあてている。右岸の雄神発電所・庄東第一発電所・庄東第二発電所も同様である。

6利賀ダムの建設

 利賀ダムは南砺市利賀村豆谷地区に国土交通省北陸地方整備局によって建設中のダムである。利賀ダムは「洪水調節」・「流水の正常な機能の維持」・「工業用水の供給」を目的に掲げた多目的ダムで、堤高112m、堤長232mの重力式コンクリートダムである。2000(平成5)年に工事に着手したが、民主党政権によるダム見直しにより、本体工事には未だかかっていない。現在は工事用道路利賀トンネルと利賀湖面橋の工事が施工中である。

 ダムは未完成であるが、下流域では利賀ダムの建設を見込んだ水の利用(北陸コカコーラ・砺波市)なども実施されている。


【第56回歴史地理学会大会実行委員会 砺波市立砺波散村地域研究所 巡検資料『五箇山から砺波へ』2013年より抜粋】

 

 

  

 

 

 

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