庄川が現在のように砺波平野の東部に片寄り堤防に沿って流れるようになったのは、寛文10年(1670)から正徳4年(1714)まで、45年の歳月をかけて築いた弁財天前の松川除が完成してからのことである。弁財天前の川除築堤以前の庄川は、飛騨・五ケ山地方を通って湯山・小牧の渓谷を離れると、現在の庄川合口堰堤付近から数条の川筋となって砺波平野を放射状に流下していた。数条の主な川筋は、二万石用水路にあたる野尻川と、鷹栖口・若林口・新又口用水路に当たる新又中村川と、舟戸口・千保柳瀬口用水路に当たる千保川と・現在の庄川筋である中田川の四河川であった。あるときは大流路となり、あるときは小分流となって互いに交錯し合い、網の目のような川筋となって奔放に砺波平野全体に土砂を運び出していた。その川筋と川筋の間の微高地に農民は早くから住みつき、洪水の脅威と闘いながら耕作地を守り通してきたのである。
「加越能三ヶ国御絵図被仰付候覚書」によると、庄川は、応永13年(1406)までは、小牧村で西に向かって折れ曲がるようにして高瀬村へ流れ、川崎村(現南砺市福野)で小矢部川と合流し、松沢村(現小矢部市鷲島)の方へ流れていたと記録されている。記述の通りだとすると、庄川は、現在の山見八ヶ用水路取入口から水路に沿って、庄川小学校グラウンド→示野神明宮→旧加越線東山見駅→坪野神明社の台地を通らねばならないことになる。しかし、示野神明宮の等高線上にある青島松原地内には、縄文の土器や石器が広く分布しており、住居跡も発見されているし、土質を見ても歴史時代以降に庄川の河床だったとは考えにくい。庄川が西流した限界は、第三河岸段丘の下に沿って、庄川合口堰堤→新用水路→庄川グラウンドの下段→町営住宅→二万石用水路右岸→福野高校北端→福野二日町→上津→小矢部川への合流の線しか考えられないのである。
「覚書」は、応永13年から250年も後の明歴元年(1655)以後に書かれたものであるから、記述そのものは真実であるとは言い難い。「極楽寺歴代略記」には「応永十三年ハ春ヨリ天下大イニ飢餓シ、秋ノコロ洪水大風未曾有ニシテ諸人悲シメリ」と記されてあり、応永13年には大洪水のあったことが知られる。同年6月に庄川は大洪水となって野尻川が庄川の本流となり、次第に本流は新又中村川から千保川へと、西から順に東へ移動したと記されている。このことは、砺波平野開拓の歴史から考えてもうなずかれるが、本流は必ずしも西から順に東へ移動したのではなく、大小の川筋が網の目のように互いに流れ込み、分流していたと考えたい。
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