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8松川除の築堤 2014.12.2
T築堤以前の川筋

 庄川が現在のように砺波平野の東部に片寄り堤防に沿って流れるようになったのは、寛文10年(1670)から正徳4年(1714)まで、45年の歳月をかけて築いた弁財天前の松川除が完成してからのことである。弁財天前の川除築堤以前の庄川は、飛騨・五ケ山地方を通って湯山・小牧の渓谷を離れると、現在の庄川合口堰堤付近から数条の川筋となって砺波平野を放射状に流下していた。数条の主な川筋は、二万石用水路にあたる野尻川と、鷹栖口・若林口・新又口用水路に当たる新又中村川と、舟戸口・千保柳瀬口用水路に当たる千保川と・現在の庄川筋である中田川の四河川であった。あるときは大流路となり、あるときは小分流となって互いに交錯し合い、網の目のような川筋となって奔放に砺波平野全体に土砂を運び出していた。その川筋と川筋の間の微高地に農民は早くから住みつき、洪水の脅威と闘いながら耕作地を守り通してきたのである。

 「加越能三ヶ国御絵図被仰付候覚書」によると、庄川は、応永13年(1406)までは、小牧村で西に向かって折れ曲がるようにして高瀬村へ流れ、川崎村(現南砺市福野)で小矢部川と合流し、松沢村(現小矢部市鷲島)の方へ流れていたと記録されている。記述の通りだとすると、庄川は、現在の山見八ヶ用水路取入口から水路に沿って、庄川小学校グラウンド→示野神明宮→旧加越線東山見駅→坪野神明社の台地を通らねばならないことになる。しかし、示野神明宮の等高線上にある青島松原地内には、縄文の土器や石器が広く分布しており、住居跡も発見されているし、土質を見ても歴史時代以降に庄川の河床だったとは考えにくい。庄川が西流した限界は、第三河岸段丘の下に沿って、庄川合口堰堤→新用水路→庄川グラウンドの下段→町営住宅→二万石用水路右岸→福野高校北端→福野二日町→上津→小矢部川への合流の線しか考えられないのである。

 「覚書」は、応永13年から250年も後の明歴元年(1655)以後に書かれたものであるから、記述そのものは真実であるとは言い難い。「極楽寺歴代略記」には「応永十三年ハ春ヨリ天下大イニ飢餓シ、秋ノコロ洪水大風未曾有ニシテ諸人悲シメリ」と記されてあり、応永13年には大洪水のあったことが知られる。同年6月に庄川は大洪水となって野尻川が庄川の本流となり、次第に本流は新又中村川から千保川へと、西から順に東へ移動したと記されている。このことは、砺波平野開拓の歴史から考えてもうなずかれるが、本流は必ずしも西から順に東へ移動したのではなく、大小の川筋が網の目のように互いに流れ込み、分流していたと考えたい。

U天正の大地震と河道の変更

 天正13年(1585)、中部地方内陸部を震源とする巨大地震が襲い、庄川の川筋に大きな影響を与えた。

 天正年間(1573〜)には庄川の主流は千保川で、合口堰堤付近の藤掛船渡場(舟戸)から青島→高儀新→五ケ→筏→古上野へと流れ、野尻川や新又中村川へも庄川の自然流の一部が流れ込んでいた。それが天正13年11月の大地震によって金屋岩黒地内の東の山(庄川左岸)が、庄川右岸の蛇島というところへ山抜けして土砂が崩れ落ち、庄川を堰き止めてしまったのである(「越中国名跡誌」「三壺記」「雄神神社社伝」)。上流山間部の谷には川水があふれていたが、下流には流れないので川下は一面の川原となってしまい、鮭・鮎・そのほかの川魚は大量に手づかみで拾い捕れたという。20日ほど経つと、堰き止められた水は、右岸名ヶ原の麓の辺りから土砂とともに一挙に流出した。東側に片寄って流れたことになる。川西の住民は事なきを得たが、川東にあった雄神神社付近は川の流れをまともに受け、水が山裾に続いている松林の社地の中に流れ込んできたので、社地は東西に分断された上、ご神体は社殿とともに押し流された。この洪水で、庄川は広谷川と谷内川の流路である中田川へと入り込んだ。(『庄川町史上巻』による)

V柳瀬普請

 承応2年(1653)6月22日、前田利常は「柳瀬川」の水を「中田川」へ落とすことを命じた。

 これは、柳瀬川の水が、当時造営中の高岡瑞龍寺の寺地へながれたからであった。柳瀬川は、今の千保口用水筋(取入口は中野村と太田村の境)で、千保川本流へ合流する途中の祖泉地内で切れ込み、柳瀬・西武金屋・石代を通って増仁川へ流入し、瑞泉寺の背後を削って千保川へ合流したのである。

 当時この辺りを管轄していた御扶持人十村の戸出村又兵衛の日記『万覚書之帳』(河合文書)によると、この年の5月から6月にかけて、祖泉・柳瀬・秋元・西部金屋の村々で流入した土砂を取り除く作業が行われ、翌閏6月から8月にかけて「柳瀬御川除」が築かれた。これが柳瀬普請である。御扶持人十村の戸出村又兵衛・宮丸村二郎四郎が川除奉行深町弥右衛門・富田七兵衛「御くわへ人」として総指揮を執った。工事が終わって算用場奉行伊藤内膳、家老奥村因幡から江戸へ参勤中の利常への報告によると、砺波・射水・氷見のいわゆる川西三郡から述べ三万四千余人の「出夫」が動員されたとある。

 先の6月22日付利常書状は江戸から発せられたもので、翌月の閏6月20日に家老の奥村因幡が直々この普請現場へ来て十村らに示したものであった。その文面に「弁財天之上」とあったので、千保川から取水していた中村口・若林口・荒又口・千保口の諸用水は、翌日の閏6月21日で反対の陳情をしている。そのためすぐに千保川の締め切りが行われることはなかったが、この構想が、後に寛文10年(1670)から始まる弁財天前松川除築堤につながったのである。

W弁財天前川除(松川除)

 松川除堤防は庄川扇頂部にあり、庄川の治水と砺波平野の開発のために築造され、近世を通じて補強された治水遺跡である。

 天正13年(1585)の中部大震災によって、当時、千保川を主流としていた庄川は東に新しい川筋を作った。その後、加賀藩は、庄川の治水と砺波平野の開発を進めるため、千保川をはじめ、今まで西方へ流れていた諸分流を閉め切って、東の新しい川筋(現庄川)へ一本化する工事を始めた。工事は、寛文10年(1670)に始まり、正徳4年(1714)に完成。工事費は、藩の御納戸金と流域村からの水下銀によった。

 しかし、大出水の際にはしばしば切れたので、補強、盛足し工事は幕末に至るまで続けられた。文化4年(1807)に根固めのために松が植えられたので、地元では「松川除 」と呼んだ。長さ850間(1530メートル)といわれる。中野発電所横の堤防で、現在県道高岡庄川線が通っている。なお、松川除の呼称の初見は、天保5年(1834)(菊池文書)で、文化4年の松植栽から27年後である。

 前堰は、この松川除を守るためにさらに、東の川沿いに作られた堤防である。寛政11年(1799)の石黒伸由作成の地図では、まだ鳥足と蛇篭による仮堤防状であったが、次第に補強された。この堤防の松は、弘化2年(1845)に植えられている。藩では、松川除と、前堰の工事を総称して弁財天前川除御普請と称した。

松川除の松は大半が戦時中に伐られたが、前堰の松は一部残っているので、かつての松川除の景観を偲ぶことが できる。また、両堤防を総合して霞堤のシステムを残している。御川除地蔵は、年記はないが、古様な阿弥陀座像で、台石に「御川除」と刻まれている。松川除の安泰を願って造立されたものであろう。


【第56回歴史地理学会大会実行委員会 砺波市立砺波散村地域研究所 巡検資料『五箇山から砺波へ』2013年より抜粋】

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