砺波平野で人々が稲作を始めたのは、今から1500年以上前のことです。庄川扇状地扇端部の湧水の湧き出る福岡や戸出などの湿地や、平野周辺の山麓部に水田跡の遺構が発見されています。
奈良時代になると東大寺の荘園(しょうえん)が砺波郡の4箇所に作られ、砺波の米が遠く奈良の都まで運ばれました。
散居村がいつごろから成立したかは定かではありませんが、その起源については、今まで学会でさまざまな議論がなされてきました。古代の条里 制に起源を持つという説や加賀藩の農業政策によるという説、扇状地の自然と開拓事情、稲作慣行によって散居村が成立、持続したとする説などがあります。し かし、一般的には中世末ごろから散居村が形成されたと考えられています。
砺波平野の開拓は、洪水被害の少ない平野の周辺部から始まり、次第に中央部へと進みました。散居村はその過程で平野全体に広がっていったとみられます。 江戸時代になって砺波郡を領有した加賀藩は、本来は散居村に不適な田地割(でんちわり)制度を行いましたが、屋敷林の木陰部分の年貢を軽減 する「陰引き」や、田地割後、自分の屋敷の周辺に耕地を集めるための交換を認めていました。このことは、各農家が屋敷の周りの田を耕作することが米づくり にとって有利であることを藩が認めていたということです。加賀藩は、江戸時代を通して「加賀百万石」といわれた全国一の石高を持つ大藩でしたが、砺波郡は その4分の1にあたる25万石を生産していました。まさに豊かな穀倉地帯でした。
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