正倉日記

 

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秋南の十一面観音石仏

2021.11.26

秋南の十一面観音石仏

秋南の十一面観音石仏

秋南の十一面観音石仏

■秋南の十一面観音石仏・砺波市秋元

小矢部、坪野線、秋元十字路の信号機より東へ約100メートル、河原三郎右衛門宅前を右折して南へ100メートル位、秋南集会場前に木造の御堂がある。
 この堂は、旧中筋往来と旧石動往来との交差点の東北角に石動往来に面して建立されたものと思われる。
 明治18年9月の建立で、その後、世の変遷に伴い何度か道路が移転拡張され、現在は100メートル西側及び北方へ道路が移動し、昭和43年耕地区画整理の際に旧道もなくなり今は静かな佇まいとなっている。高さ244センチメートル、幅117センチメートルの南般若地区随一の大きな石仏である。その御姿は、端麗な容ぼう、柔和なまなざし、頭上の真中に阿弥陀如来相といわれる仏、その左右に五面づづ化仏の面をつけておいでる十一面観音様である。
 右手を広げ左手には蓮の花を持ち、金色の輪の中に立たれた御姿は、いかにも神々しく自ら頭が下がる。
 昔、秋元の大三昧と呼ばれ、中筋一番恐ろしいといわれた所で、北隣に、南新右衛門(明治の初期頃は安太郎)という大きな屋敷があり、大きな木がうっそうと繁り、それより南へ共同火葬場へと続いていて、その中でもとりわけ大きな桜の木があって「たぬき」や「きつね」が住んでいて、道ゆく人をおどかすので昔の人達、(高畑喜作(82才)の先代吉右衛門)等は、脇差を持って通ったと伝えられている。それで死者の供養と道行く人を守っていただくために建立されたそうである。
 石屋さんから、秋元上村の若衆が総出をして転引きで運ぶ途中、太田の四つ角で動かなくなり、あらゆる手立てをしても動かず、途方にくれてその村の万福寺の住職並びに般若庵の尼僧にお経を上げていただいたところ、不思議にも動き出し現地に到着出来たと聞いている。
 その御縁で以来毎年の祭礼には万福寺の住職並びに尼僧にお参りに来ていただき読経、西国三十三番礼所の御詠歌があげられている。
 この観音様は、西国三十三番礼所の八番大和の長谷寺の十一面観音様にあやかっているのではないかとも伝えられる。ちなみに、観音堂に掲げてある額に八番の御詠歌が書かれている。
 昔は、ばん持大会が盛んで村の若衆は広場に集り石を持ち上げてその力を競った。その名残のものと思われる石が一個、観音様正面の松の木の根元に置かれている。
 祭りの晩には踊りがあり、音頭取りと呼ばれる唱い手が遠くの村から集って「音頭」「ちょんがれ」等を唱い、踊りが終ると三役が選ばれ「大関」は名を記されて堂内に奉納されている。(『南般若村史』より)

 何時の頃からか、「子宝観音」といわれ、子供が恵まれない方が、21日間続けてお参りすると子供を授けてくださるとか、お乳の病が直ってとか、又は、良い縁談に恵まれたとかいわれ、多くの人がお参りにこられます。その祈願された釘の跡がまわりの木々に残されています。(『砺波市の石仏第3集 油田・庄下・柳瀬・南般若』より)

場所は、秋元交差点角にあるコンビニの裏手あたりと言ったほうがわかりやすいでしょうか。
音様の彫られた石は大きく、銘文には「明治十八年九月建之 願主当所若連中 石工森川栄次郎」とあります。
保存は良好、石に彩色の箇所もあり、観音様の表情などもしっかり確認できます。

【2011年8月16日18:17『ふるさと学芸員の小窓』より】