正倉日記

 

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伝長尾為景塚

2021.11.27

伝長尾為景塚

伝長尾為景塚

伝長尾為景塚

■伝長尾為景塚・砺波市頼成新

頼成新、和田川導水路縁の田んぼの中に古くから伝わる為景塚がある。塚の中央には昭和44年春に佐藤助九郎氏が詠んだ句「紅花や猛将女傑の夢のあと」 為景塚供養と彫られた石碑がある。

当時の歴史は、一向一揆の勢力が大きくなり、神保慶宗の連合軍と手を組んだ為景の父越後守護代長尾能景は、「芹谷の合戦」(般若野合戦)で 一向一揆方と対決し討死した。その後、為景も越中に侵攻するなど越中国は戦乱が続いていた。為景の越中攻めは以下のとおりである。

永正16年(1519) 越中に侵入。神保慶宗の本拠二上城を囲んで、
             いま一歩のところで失敗に終わった。
永正17年(1520) 再び攻め込み、遂に慶宗を新庄に敗って捕斬、
             父能景を敗北、戦死に追い込んだ芹谷の合戦
             の宿怨をはらしたといわれる。
大永 元年(1521) 越中侵入。その年、為景は畠山氏よりその協
             力によって新川郡の守護代に補されたという。

(塩照夫著 戦国のロマンより)

為景のそれ以後についてはいろいろの説がある。「病死説」と「戦死説」である。『越中志徴』には、宝暦14年古蹟調書に、為景塚は頼成新村領内にあり、そこは上杉為景が討死した所であるとしている。『上杉謙信公年表』には「天文5年丙申(1536)12月24日父為景死す、林泉寺に葬る」として、この戦死を否定している。林泉寺にも為景の墓があり、今のところは「病死説」が定説とされている。

為景塚から東方180メートルには芹谷の合戦(般若野合戦)で討死した父の能景塚がある。海音寺潮五郎原作「天と地と」のNHK大河ドラマで一躍有名になった千光寺には、天文15年(1546)、為景の子上杉謙信が訪れ父を供養している。その際の位牌と献刀は現存している。

【2011年08月19日10:56 「ふるさと学芸員の小窓」より】