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G五代根尾長次郎・笹島英樹・宮下鉄蔵・瀬尾正雄

2014.5.13

五代根尾長次郎

五代根尾長次郎

五代根尾長次郎

(明治8年〜昭和35年)
 水野豊造がチューリップ栽培を始めた頃から彼の熱心さに注目し、これを後援し、昭和8年に庄下村村長に就任後、村政の指導精神を二宮尊徳の報徳の教えに依り、村の財政立て直しのため球根栽培を農家の副業として育て上げることに心を砕いた。

 昭和12年にアメリカへ初めてチューリップが試験輸出されたが、栽培品種が輸出向きでないことが明らかとなり、品種更新の必要が生じた時、折良く庄下村が農村経済更正指定村の指定を受け、国から補助金を得たのでその大半を庄下村のみならず県下一円に広がりつつあったチューリップ栽培農家育成のためオランダからの新品種輸入の資金に充当した

 その後まもなくオランダがドイツ軍に占領されたことにより球根の輸入は不可能となったので、これが戦前ただ一度の輸入となった。この品種は戦時下でも細々と保存され、戦後これを種球根として大量に増殖し、チューリップ輸出の基盤を作った。

笹島英樹
前列中央笹島英樹

前列中央笹島英樹

(明治30年〜平成2年)
 井波町出身、大正6年渡米し、多くの困難の末ロサンゼルスで花卉卸業者として成功。

 昭和12年帰郷の折、たまたま母校福野農学校以来交わりの深かった四谷順三の訪問を受け、球根産業の現状を説明され輸出についての協力を依頼された。この氏を通じてのチューリップ球根輸出が本県の球根輸出が始まりとなった。翌13、14年にもわずかながら出荷し、昭和15年に初めて40万球の輸出を達成できたのはこの人に負うところが大きい。

 戦時中一時輸出は途絶えたものの、戦後の輸出再開の時にもバイヤーの紹介をするなど、今日の球根産業発展に大きく寄与している。

宮下鉄蔵
宮下鉄蔵

宮下鉄蔵

(明治41年〜昭和48年)
 林村水宮に生まれる。昭和9年、当時チューリップ栽培者であった兄喜太郎のもとへ庄下村の栽培者が係争の仲裁の依頼に来たことが彼とチューリップの関わりの最初であった。昭和10年、砺波輸出花卉球根組合に加わりの奈良の大和農園に入園、チューリップ球根栽培技術のみならず全国の球根栽培に関する状況を把握し、帰郷後栽培技術の改善に科学的手法を取り入れた。特にバイラス病の対策は乾燥時に圃場灌水をすることがその予防になることを発見し、いままでバイラス病のために栽培不適とされていたダーウィン・コッテージ種の遅咲品種の栽培を容易にするなど、栽培技術の改良に尽くした。また品質管理のための県営検査の実施、輸出向け品種の大量導入の必要性などを強く主張し、戦時中の種球根維持対策など、その足跡には大きいものがある。

 特に球根栽培の土造りに堆肥、厩肥が必要であることを説き、球根栽培農家に乳牛を飼育をすることを勧めた。彼の努力により、のち球根栽培と酪農は共に普及するようになった。

瀬尾正雄
瀬尾正雄

瀬尾正雄

(明治27年〜昭和54年)
 庄下村坪内の素封家の家に生まれる。砺波中学の第一期生として卒業したあと自宅で野菜や園芸ものなどを栽培し、庄下村では初めて温床育苗を試みていた。そのとき温床に興味を持った水野豊造の訪問を受け、チューリップの話を聞くようになった。ちょうどそのころ根尾宗四郎から係争中の庄下村チューリップ栽培の実態収拾のために力を注ぐように勧められたことから、自らもチューリップを栽培することによって事態の収拾を図る事を決意した。昭和13年富山県輸出球根出荷組合連合会設立の折には理事として参加、昭和21年富山県球根協会設立には副会長、昭和23年富山県花卉球根農業協同組合設立時には理事、昭和26年からは四期12年間の長きにわたり組合長として組合の躍進期を築き上げた。また昭和27年からは輸出球根組合中央理事としても活躍した。

 昭和36年、輸出球根の功労に対し黄綬勲章が、昭和47年勲五等旭日章が授けられた。


【砺波郷土資料館・砺波市文化協会 『となみのチューリップを育てた人びと』1996年より抜粋】