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H能登の素麺

2014.5.27

能登の素麺

 大門村へ素麺の製法を教えてくれた能登高松地方の素麺の生産は、その後どのようになったのでしょうか。

 大門素麺の沿革を知るとともに、その沿革も知りたいものであることは、素麺の生産者は勿論他の人も興味深いことです。幸いこのたび佐伯安一氏が資料を提供して下さったので、これを記して後世に伝えることとします。

 能登地方の素麺の製造は、天保年間に始まり、最初は輪島付近で作られていたが、そのあと蛸島を経て高松に伝えられたものである。大門村で素麺を作られたのが嘉永元年(1848)であるので、大門より一、二年前か、それとも同時期に高松でも素麺の製造が始められました。

 高松では嘉永年間に、加賀前田藩から資金の貸付け等の援助を受けて生産を奨励したので、たちまち能登第一の生産地となり、加賀藩から素麺の製造販売の取締りについて特別の権限が高松に認められました。

(大門素麺が生産を始めた頃、能登蛸島栗田次平の名前で販売されたのは、この取締りによるものです。)

 高松の素麺生産は盛んで明治、大正を経て昭和の初期に至るまで続きました。高松地方ではこの素麺を束ねた形が丸髷に似ているというので「丸髷素麺」「島田素麺」ともいいました。

 この素麺も満州事変、太平洋戦争と長い戦争のために、次第に原料の小麦粉、食塩、種油等の原料入手が困難になったことと、やみの取締りが厳しくなってついに製造ができなくなり、天保年代から数えて百年余りにして伝統の能登素麺も消えてなくなりました。

 また、蛸島の栗田家の子孫の方が、珠洲市蛸島町ツ部四十七番地栗田一男で現在は豆腐製造業を営んでおられます。素麺の製造は祖父裕次郎のときにやめたが、それは明治末年頃であると、同家には当時の木版だけが残されています。


【庄下村誌編纂委員会『庄下村史誌』より抜粋】