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W−@近代の砺波『明治維新』

2014.9.4

1新しい政治と人々のくらし「新しい政治」「文明開化」

移り変わる県域

移り変わる県域

・新しい政治

 1868年(明治元)、年号が明治と改まって、五箇条の御誓文のもとに、新しい政治が行なわれることになった。まず政治は、1869年(明治2)に版籍奉還(はんせきほうかん)を行ない、藩主が治めていた土地(版図)と人民(戸籍)とを朝廷に返させた。さらに1871年(明治4)、廃藩置県(はいはんちけん)を行ない、藩を廃止し、府と県を置いて、元の藩主にかえて、中央から新たに府知事・県令(県知事)を任命した。こうして約280年続いた加賀藩の支配に終止符がうたれた。

 廃藩置県によって、砺波郡は金沢県に属することになった。しかし、当初の分県区域や県名は、しばしば変更され、この年のくれ、砺波・新川・婦負3郡が合わされて新川県となった。さらに翌年、七尾県に属していた射水郡が加わり、古くから越中国と言われた全地域が初めて一つの県になった。ところが、1876年(明治9)政府はさらに大併合を行なった。この大併合によって、新川県が敦賀県(福井県の前身)の一部とともに石川県に編入され、いわゆる大石川県地代をむかえることになった。その後、石川県と分かれて富山県が誕生したのは、7年後の1883年(明治16)であった。


・文明開化

 政府は、「文明開化」を旗じるしに次々と新しい政策を実行していった。これまでの身分制度(士農工商)が除かれ、国の守りは国民皆兵の軍隊があたることになった。また、多くの農民を苦しめていた年貢のきまりも改まった。

 1872年(明治5)に政府は学制を発布し、小学校の設置を決めたので、今までの寺子屋教育から新しい学校への道がひらけた。しかし、はじめの頃の学校は、お寺や民家を改造したもので、農民や職人の中には、仕事の助けとなる子供を学校へ出さない人も多かった。また、女子には授業料まで出して教育を受けさせる必要がないという考えも根強く、当初は男子40%、女子15%の就学率であった。

 1872年(明治5)には、杉木(すぎのき)郵便役所(局)が設置された。当時の郵便局は無集配で、町内のものはそこをたずねて持ち帰るというのんびりしたものであった。また、人力車が見られるようになったのは、1879年(明治12)で、めずらしさのあまり、何度も乗りつぎした人もあった。1886年(明治19)に、税務署の仕事をするところができ、続いて裁判の仕事をするところもつくられた。

 しかし、一般の人々はあいかわらず貧乏と病気に悩まされた。1869年(明治2)の不作のために、飢えに苦しんだ人は、砺波郡だけで、1万数千人にものぼった。その上、1871年(明治4)に天然痘(てんねんとう)が流行した。また1879年(明治12)には、コレラが大流行し、越中全体で1万数千人もの死者を出した。相つぐ悪病の流行に対して、金沢病院杉木分院が開設されたのは、翌明治13年のことであった。

2地租改定と散村の動き「砺波農民運動」「文明開化」
地券

地券

・砺波農民運動

 1873年(明治6)政府は、地租改正に着手した。農民の土地所有権を認め、政府の定めた地価の3%にあたる地租を、土地所有者が現金で納めることになった。これにより財政の基礎は確立したが、小作人に非常な不安を与えることになった。というのも、今まで砺波地方では、散居集落という特殊な事情から田地割で田地のくみかえがあっても、互いに田地を交換しあい、その独立した散居の家のまわり耕地を集めることが多かった。ところが、地租改定により、これまでの高持百姓(たかもちひゃくしょう)に、地券が当たりくじによって交付され、所有権が認められることになった。そのため長年耕作してきた土地の小作の権利が奪われる心配がでてきた。元来砺波地方は、小作人の耕作権の強い所であったため、1876年(明治9)には、地主の地券の中に小作人の名前も書き入れることを要求する農民騒動が起こった。
 
 また、地価の100分の3という税率も、農民にとってはたいへん負担の重いものであった。そこで地租を納める地主は、今までよりも多くの小作料をとろうとした。しかも、小作料は藩政時代そのままの物納制(米納)を新しい政治


 1868年(明治元)、年号が明治と改まって、五箇条の御誓文のもとに、新しい政治が行なわれることになった。まず政治は、1869年(明治2)に版籍奉還(はんせきほうかん)を行ない、藩主が治めていた土地(版図)と人民(戸籍)とを朝廷に返させた。さらに1871年(明治4)、廃藩置県(はいはんちけん)を行ない、藩を廃止し、府と県を置いて、元の藩主にかえて、中央から新たに府知事・県令(県知事)を任命した。こうして約280年続いた加賀藩の支配に終止符がうたれた。

 廃藩置県によって、砺波郡は金沢県に属することになった。しかし、当初の分県区域や県名は、しばしば変更され、この年のくれ、砺波・新川・婦負3郡が合わされて新川県となった。さらに翌年、七尾県に属していた射水郡が加わり、古くから越中国と言われた全地域が初めて一つの県になった。ところが、1876年(明治9)政府はさらに大併合を行なった。この大併合によって、新川県が敦賀県(福井県の前身)の一部とともに石川県に編入され、いわゆる大石川県地代をむかえることになった。その後、石川県と分かれて富山県が誕生したのは、7年後の1883年(明治16)であった。


・文明開化

 政府は、「文明開化」を旗じるしに次々と新しい政策を実行していった。これまでの身分制度(士農工商)が除かれ、国の守りは国民皆兵の軍隊があたることになった。また、多くの農民を苦しめていた年貢のきまりも改まった。

 1872年(明治5)に政府は学制を発布し、小学校の設置を決めたので、今までの寺子屋教育から新しい学校への道がひらけた。しかし、はじめの頃の学校は、お寺や民家を改造したもので、農民や職人の中には、仕事の助けとなる子供を学校へ出さない人も多かった。また、女子には授業料まで出して教育を受けさせる必要がないという考えも根強く、当初は男子40%、女子15%の就学率であった。

 1872年(明治5)には、杉木(すぎのき)郵便役所(局)が設置された。当時の郵便局は無集配で、町内のものはそこをたずねて持ち帰るというのんびりしたものであった。また、人力車が見られるようになったのは、1879年(明治12)で、めずらしさのあまり、何度も乗りつぎした人もあった。1886年(明治19)に、税務署の仕事をするところができ、続いて裁判の仕事をするところもつくられた。

 しかし、一般の人々はあいかわらず貧乏と病気に悩まされた。1869年(明治2)の不作のために、飢えに苦しんだ人は、砺波郡だけで、1万数千人にものぼった。その上、1871年(明治4)に天然痘(てんねんとう)が流行した。また1879年(明治12)には、コレラが大流行し、越中全体で1万数千人もの死者を出した。相つぐ悪病の流行に対して、金沢病院杉木分院が開設されたのは、翌明治13年のことであった。ひきついでいたので、米価が上がると小作人はたいへんな不利益であった。そのため、一揆など農民の抵抗が各地で起こった。こうした情勢の中で翌10年1月には地租が地価3%から2.5%に引き下げられた。この地租の減額をめぐって小作と地主の対立が激化した。地主側は地租の減額は土地の所有者である地主に与えられたものと主張し、小作人側は、小作救助のためのものであるから小作人に与えられたものと主張して対立し、不穏な情勢となった。

 そこで同年2月3日より、県側は、権令代理、参事熊野九郎以下官史10名を30人の巡査とともに、砺波地方に説明にまわらせた。一行はまず、今石動町で3・4両日説明し、6日には、杉木新町真光寺で説明を行なった。寺は多数の小作農民に包囲され、ものものしい空気の中で説明が続けられた。翌7日には、戸出町永安寺でも説明は行なわれたが、この時数千人もの小作人が寺を取り囲み、一部は暴徒化し、熊野九郎は永安寺の裏よりようやく脱出した程であった。群衆はいよいよ激しく地主の家屋を打ちこわすまでに至り、ついに金沢から軍隊、警察が来て鎮圧するというすさまじさであった。1878年(明治11)頃から、米価は年々上がっていった。そして、農村には貨幣経済が急速に浸透していった。年貢(小作料)は、米で納められたので、米価が上がれば上がるほど、小作料と地租の差が大きくなり、地主の利益はふえていった。

3砺波の自由民権運動「政党の結成」
左安念次左衛門・右島田孝之

左安念次左衛門・右島田孝之

 明治になってから、次第に広まってきた自由平等・自由民権の考え方は、やがて「国会をひらけ」の運動となってもりあがり、砺波地方でも島田孝之(島新)・安念次左衛門(太田)・桜井宗一郎(油田)・武部其文(三清)大矢四郎兵衛(鷹栖)など、時流を察した先覚者たちによって、自由民権運動が始められた。

 島田孝之は、それまで中央官界にいたのが、国会の開設が約束され、地方民が政治に参加する道がひらけたので、1881年(明治14)官を辞して帰郷し、出町に北辰社(ほくしんしゃ)をつくった。そして翌15年5月、島田の主唱で、越中自治党・相益社(そうえきしゃ)・越中義塾・北辰社、その他越中5郡の有志500余名が高岡超願寺(ちょうがんじ)に会し、越中改進党を結成した。この中には、安念次左衛門・桜井宗一郎も加わりその党員は1600名に達した。その後島田は、同年9月上京し、大隈重信(おおくましげのぶ)らと会談し、越中改進党を中央の立憲改進党に合流することを決意した。その結果、越中改進党は結成わずかにして、中央に合流しようとするもの、地方的団結をかためようとするものとの2派に分かれたが中央政界に連なった政党として島田・安念・桜井らは新たな活動を展開していった。

 島田らは、まず、越中議員らと結んで、活発な分県運動を展開した。1881年(明治14)には、石埼謙(林)が分県設立建白書を初めて提出し、翌年越中国の有志代表が富山に会し、分県運動を決議し政府に提出した。これが翌16年5月に実現し富山県となった。県庁を富山城跡におき、7月には22名の県会議員が選出され、8月には第一回富山県議会が開かれた。議会議員22名のうち、改進党系9名、自由党系9名で、島田孝之、安念次左衛門も含まれていた。

 こうして自由民権運動は、民意を代表する議員を通じて県会に反映され、白熱化していくことになった。特に、改進党の越中の中心である出町では、1885年(明治18)より砺波郡改進党の機関紙「北辰雑誌」が毎月2回発行され、島田孝之・安念次左衛門・西能源四郎(さいのうげんしろう)らは政見を発表し、同時に「螢雪叢談」をも発行して地方の啓蒙にあたった。

 しかし中央では、1881年(明治14)の国会開設の詔以来、自由民権運動を弾圧する態勢をとった。すなわち、集会条例、新聞紙条例などによって弾圧を強化し、一方では、政党に対する懐柔、分裂もはかった。また、松方デフレ対策の強行によって、農村に深刻な不況がもたらされ、自由民権運動は次第に民衆の生活を守る運動へと変わっていった。これによって、利益の対立する地主階層は、小作人をおさえるために政党から脱党する結果となり、財政基盤を失った政党は次第におとろえていった。こうして1884年(明治17)自由党・改進党は共に解党が提案され、越中の政党活動もおとろえていく結果となった。

4市町村制の執行「戸長制から町村制へ」「郡制の実施」
市町村制施行当時の村

市町村制施行当時の村

・戸長制から町村制へ

 王政復古後、杉木新町にあった砺波郡奉行(となみこおりぶぎょう)は砺波郡治局に、十村は郷長・里正と改められたが、各町村が新しい行政の末端機構におりこまれていくには、1871年(明治4)の廃藩置県により樹立される、新政府の実現まで待たなければならなかった。

 この新政府の手により、1872年(明治5)今まで砺波郡にあった16の十村組が廃止され、砺波郡は新たに11区に区画編成され、6か所の区会所がつくられた。さらに1878年(明治11)、郡区町村編成法(ぐんくちょうそんへんせいほう)が定められ、町村戸長を公選させることにした。また従来の区務所(くむしょ)にかわって郡役所をおき、官選の郡長が町村の行政を指導することを規定した。こうして、砺波郡には68の戸長役場(こちょうやくば)がおかれ、村会議会が選ばれた。しかし、砺波郡役所は、長い伝統を無視して、砺波郡の中央から偏して今石動におかれることになり、多くの村々から不満を受けることになった。

 ことに当地方では、郡役所を出町に移転させることを強く望んだ。それが戸長小幡直次(おばたなおじ)・西村三右衛門(にしむらさんえもん)など多くの人の努力で実を結びで町に移されたのは、8年後の1886年(明治19)のことであった。その後、1889年(明治22)には、市町村制が施行され、これは大正・昭和と続き、砺波市誕生までの町村地方自治の基準となった。

・郡制の実施

 郡役所の移転争奪は、やがて砺波郡の東西分離の声を起こした。1896(明治29)の郡制実施によって、砺波郡は東西砺波に二分され、庄川に沿う5町33か村は東砺波郡、小矢部川に沿う5町38か村は西砺波郡となった。そして東砺波郡役所は井波に、西砺波郡役所は今石動におかれた。鷹栖村・林村・高波村は西砺波郡に所属することになった。

 1902年(明治35)井波町におかれていた東砺波郡役所が全焼したので、出町に移されることになった。出町に町民は町をあげて移転を歓迎した。この郡役所は、1920年(大正9)に福野町へ移転の問題がおきたが、出町は付近の町村と非移転期成同盟会をつくり、その阻止にあたった。しかし、1926年(大正15)郡制廃止とともに郡役所も廃され、その事務はすべて県に移管されることになり、元庁舎は様々な公共機関の支所にあてられることになった。

【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】