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W−A近代の砺波『商工業の発達と交通』1・2

2014.9.4

1中越銀行「銀行業の創業と滋芳社」「中越銀行」

中越銀行

中越銀行

・銀行業の創業と滋芳社

 1872年(明治5)4月、政府は全国統一流通の新貨幣を発行し、続いて同年11月国立銀行条約を公布した。こうして、1873年(明治6)東京・横浜・新潟・大阪に国立銀行が開業された。一方民間からの銀行設立の気運も高まり、1876年(明治9)に三井銀行が東京で開業し、1879年(明治12)には、共立銀行・安田銀行がそれぞれ開業した。

 砺波の地においても、1880年(明治13)砺波仕法銀(となみしほうぎん)をもとに、旧十村役らの力によって「滋芳社(じほうしゃ)」が創設された。滋芳社は株式組織を持ち、旧集会所建物を利用して営業が行なわれた。利益金は、各種公共的事業に寄付されることが多く、滋芳社の藩から受け継いだ公金的な性格が強くうかがわれる。また、巨費を投じて時鐘を鋳造し、1時間ごとに時報を知らせたりして、時計のなかった当時の民衆から大いに喜ばれた。

 しかしその滋芳社も1881年(明治14)以降の松方デフレ政策にまきこまれて、倒産に追いこまれた。砺波における本格的な銀行の誕生は、「中越銀行」の創業まで待たねばならなかった。

・中越銀行

 1881年(明治14)大蔵卿松方正義(おおくらきょうまつかたまさよし)は、国立銀行の紙幣発行権を停止し、翌1882年に唯一の兌換(だかん)銀行券の発行銀行である日本銀行を創設した。日本銀行の創業によって、今までの国立銀行は、期限を切って営業を止めるか、民間銀行に点ずるか判断をせまられた。「中越銀行」は、1894年(明治27)富山市にあった第12国立銀行の出町出張所が私立銀行に転じた結果生まれたものであった。

 中越銀行の出資者は、出町を中心とする富豪地主層であった。1株50円、4000株を募集し、資本金20万円で発足したのであるが、富山・高岡両市にあった銀行を除けば、まさに県下農村部における最大銀行であった。1943年(昭和18)戦時体制のもと、銀行の大合併がはかられて北陸銀行に転身するのであるが、その間増資を重ね、合併された当時には、500万円の資本金を持つ銀行に成長していた。支店・出張所は、砺波地方を中心にしていたが、県内一円、石川県にも及び、さらに北海道・福井県まで設置されていた。

 銀行は、1897年(明治30)を前後として、雨後のたけのこのように生まれてきた。砺波においても、「鷹栖銀行」「神沢銀行」「共通銀行」が相次いで設立された。1908年(明治41)には、資本は小さかったが、「般若銀行」も創業している。これらの各銀行は、その後の急速な資本主義経済の発展の中で、あるものは消え、あるものは転身・吸合されてしまった。しかし、明治・大正・昭和の10年代にかけて、砺波の商工業を発展させるために、実に多くの役割を果たし、住民の小口金融機関としても益することが多かった。

 現在、中越銀行の行舎は、砺波郷土資料館としてチューリップ公園内に移転され、当時の栄えた砺波地区銀行史を我々に物語っている。

2中越鉄道「河川交通」「中越鉄道」
中越鉄道時代の機関車

中越鉄道時代の機関車

・河川交通

 明治の初めのころの道は、幅1mくらいの、人や馬が通れるだけの狭いものであった。まだ荷車や人力車もなく、扇状地を網状に流れる河川や用水路を利用して荷物を運んだ。人や馬の背で運ぶよりは、舟の方が多くの量を運ぶことができたからである。

 砺波地方でとれた米も、川舟で運ばれた。中野・庄下を流れる舟戸口用水では、高岡までの3里の水路を、十石舟にのせて下った。橋にさしかかると船頭が船の上をとんとんと渡こえ、舟は橋の下をくぐらせた。小矢部川で少し大きな舟に積みかえて、伏木からは大きな船で、大阪や北海道へ運んだ。帰りは、肥料や日用品をのせた川舟をひいて、川ぶちの小道を歩いて来た。舟の上り下りは、当時の田舎の風物詩であった。


・中越鉄道

 川舟の風景は、明治時代の中ごろから見られなくなった。この砺波に中越鉄道というのは今の城端線のことで、富山県で初めての鉄道であった。この大事業の中心人物は、鷹栖の大矢四郎兵衛(おおやしろべえ)である。「砺波の米や特産物を鉄道で運び、この地方の産業を大きく発展させよう。」と考え、1893年(明治26)に、この鉄道敷設に着手した。材料のまくら木・セメント・れんが・線路などが川舟で運び込まれ、工事は順調に進んだ。ところが、1896年(明治29)に大洪水に見まわれ、資材がすっかり流され、大きい被害を受けた。四郎兵衛はそれにもめげず、水がひくとすぐ工事を再開し、雪の降りしきる中も続けた。

 ついに、1897年(明治30)この砺波野に汽笛がするどく鳴りひびいた。高岡の黒田から福野までの間に初めて汽車が走ったのである。翌年に高岡・城端間が全通し、やがて伏木や氷見まで延長された。中越鉄道のできたおかげで、米や特産物が容易に伏木港に運搬でき、福野・福光・城端方面の絹・木綿・麻布などの生産も盛んになった。中越鉄道が砺波地方の産業の振興に及ぼした影響は大きかった。また、井波の瑞泉寺や城端の善徳寺への参拝も便利になった。

2中越鉄道「道路網の拡充」「太田橋の完成」
2回目の太田橋の完成祝賀風景

2回目の太田橋の完成祝賀風景

・道路網の拡充

 明治時代に入り、物資の輸送が盛んになるにつれて、県内の道路は次々に改修された。まず、幕末の北陸道は、1885年(明治18)に県内で初めての国道となった。この年に高岡・福光間の道路幅が約2.7m(9尺)にひろげられ、県道となった。翌年には、出町・石動間が道幅約3.6m(2間)の県道に改修された。1879年(明治30)に中越鉄道が開通すると、駅が物資集散の中心となり、ますます道路の整備が大切となってきた。それで、明治30年代には、道路は駅のある出町から放射線状にのび、町と町を結ぶ道路が整備された。

 道路が広くなると、荷車や荷馬車で運送を稼業とする者が現れ、乗合馬車も営業を始めた。明治末には、この地方に自転車も姿を見せ始め、1920年(大正9)には、出町・石動間に乗合自動車が走った。これに比べ農村の里道は、人が歩けるだけの狭いもので、散村の農家を結ぶ生活道が改修されたのは、昭和40年代になってのことである。


・太田橋の完成

 江戸時代、太田村と安川村とは渡し舟によって行き来していた。明治の初めころに、ようやく舟橋ができた。しかし、この橋は、大水のたびごとに舟や橋板を川岸につなぐという不便さがあった。そこで私設の賃取橋(ちんとりばし)をかけようということになり、1900年(明治33)に、木造吊橋型(もくぞうつりばしがた)の太田橋が完成した。通行料は、今のお金にして1人1回10円程度だった。この橋のおかげで、両岸の村の結びつきが強くなった。やがてこの橋を県が買い取り、その後何度かかけ替えた。1934年(昭和9)の大洪水のあと、コンクリートの永久橋の工事が始まり、1938年(昭和13)に完成した。現在は北側にあらたに橋が併設され、安全に一方通行できるようになっている。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

  • 大矢四郎兵衛の銅像