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X−@現代の砺波『戦後の民主化』1〜3

2014.9.4

1戦後の混乱とくらしの変化「敗戦と食糧難」「戦時体制の解体」「社会生活の民主化」

ヤミ米の取り締り

ヤミ米の取り締り

・敗戦と食糧難

 1945年(昭和20)8月15日の正午、敗戦を告げる玉音放送があった。人々は悲しみとともに戦争のむなしさをかみしめ、これからの生活を心配しながら敗戦の日を迎えた。この日から空襲警報はなくなり、電灯が明るく輝き始め、この中で、今までの戦いとうって変わって、生活をたて直すための戦いを始めなければならなかった。

 戦後生活の第一の問題は、食糧の確保にあった。敗戦の年は、米の大減収を記録している。その上に、戦地からの復員や引き上げで人口が増え、食糧輸入は断たれて、食糧の配給は1日1人、米麦2合1勺(一食あたり茶わん1杯と少々)にすぎず、栄養失調が広まった。町の人々は自ら生きるために動き出し、農村への食糧の買い出しに出なければならなかった。遠く高岡・氷見方面から、大きなリュックや袋を背負ってすし詰め列車に乗り、砺波方面へ買い出しに来る人が毎日続いた。また出町の人たちは、木炭バスに乗って栴檀山や栴檀野方面へ出向き、晴れ着を交換してまで米の「闇買い」に動き回った。戦時中の名残りとしての供出制度の乱れもあって、米は公定価格の132倍ともなり、戦争中でも経験しなかった空腹の時代が続いた。


・戦時体制の解体

 戦時体制解体の最初に行なわれたのは、軍関係機関の解体であった。また、軍事訓練を行なうなど、地域の軍事体制を強める役割を果たしてきた在郷軍人会も解散した。そして、指導者の軍人分会長と翼賛(よくさん)壮年団長は公職から追放された。

 一般の人々に対する戦時体制の解体については、県から指示された。公共の建物や土地は宗教上の祭礼に使用してはならず、また、市町村長が国旗掲揚を命じることはできなくなった。村々の学校や公共物にある忠魂碑や銅像については、特に天皇の神格化に結びつくものはとりのぞくこととされた。こうして生活のすみずみまで、軍国主義の影が徹底的に消された。


・社会生活の民主化

 戦後、食糧難や生活難とならんで重要な問題とされたのは、封建的なしきたりからの解放など、社会生活の民主化の問題であった。これは、日本が戦争をおこした原因の一つが、半封建的な社会制度にあったとする連合国側の考えにもとづくもので、連合国側の占領政策の大きな柱とされた。

 村々には、公民館の新設があり、また、青年団および婦人会の活動も、戦後、活発に行なわれるようになった。

 青年団は、戦後、いち早くどの村でも結成された。それは、日本の復興を願う青年たちの若い情熱があったからにちがいない。娯楽の少ない当時の社会において、青年団の活動は彼らの生きがいをつくる上でも大切なものであった。演芸会や運動会が活発に催された。また、同人雑誌、機関誌も発行された。

 民主主義思想の普及という考えで、最も活動がすすめられたのが婦人会であった。婦人会は、戦時中の婦女会がころもがえした形で組織された。当時の活動は、食糧・物資不足を解決し合うための活動が多かったが、生活改善運動や民主政治に関する学習なども取り入れられていった。

2行政の民主化「婦人参政権」「市町村行政の民主化」

・婦人参政権

 1946年(昭和21)4月10日に行なわれた戦後初の総選挙は、女性に選挙権が与えられた初めての選挙であった。当日の富山県の女子有権者の投票率は74.9%であった。男子有権者の投票率82.5%には及ばなかったが、女子の全国平均66.9%を上回る成績であった。

 この選挙において、婦人参政権の異議や棄権防止について、町村や社会教育機関などを通して啓蒙が行なわれた。小学生の子供たちが、学校の指示に従って、各家庭を回り、棄権防止を訴える姿も見られた。

 1954年(昭和29)2月に行なわれた鷹栖村議会議員選挙では、婦人会をあげて女性立候補者を推せんし、初の婦人議員を村議会へ送り出したのは画期的なことであった。


・市町村行政の民主化

 日本国憲法と地方自治法によって、市町村は県と同じ自治体として、住民の参政権を広め、議会の権限を強め、各首長を直接公選で選ぶこととなった。

 第1回の選挙は、1947年(昭和22)4月5日に行なわれ、出町では小野田八三郎が当選し、自治体民主化の基礎づくりとして注目された。しかし、公職追放の後であったため、以前からの指導的人物が立候補できず、人材難の村もあった。

 また、教育の民主化と関係して、教育委員会制度が1948年(昭和23)に発足した。住民が、選挙で選んだ教育委員を通して教育行政に参加することができる、という制度である。砺波地区では、出町を含む3町5村が率先して教育委員会を設置して、一種のモデルケースとして注目された。さらに、1948年(昭和23)には、警察も自治体警察となった。

3農地改革「農地改革の実施経過」「農地改革と慣行小作権」
地区別農地改革前の耕地所有状況(昭和11年)

地区別農地改革前の耕地所有状況(昭和11年)

 日本の農業に大変革をもたらし、農村の民主化と戦後の農業発展の基となったのが、農地改革である。小作地は耕作農民に解放され、地主に代って耕作農民が農村の中心となり、農村の民主化は徐々に進んだ。この改革によって、農業生産力向上の土台が築かれ、さらには、農業、農村の発展だけでなく、我が国の高度経済成長の実現に大きく結びつくこととなる。


・農地改革の実施経過

 政府は1945年(昭和20)12月に連合国総司令部の指示を受けて農地改革に関する法律を整備し、改革の実施に踏み切った。その主な内容は次のようなものである。

(1)不在地主の所有する小作地全部と、在村地主の所有する一町歩を超える小作地は、国が強制買収し、それを小作人に売り渡す。
(2)買収価格は賃貸価格の40倍とする。
(3)地主3、自作2、小作5の割合で農地委員会を構成し、実施にあたる。

 実施にあたっては県の係員によって、市町村単位で講演会や懇談会が開かれたり、映画、紙芝居、新聞、ポスター等で宣伝が行なわれたが、なかなか徹底しなかった。農地委員会の選挙は行なわれたが、農民の関心は低く、無投票による選挙区が多かった。

 なかには汗まみれで手に入れた土地を安い価格で解放しなければならないことに対する不満、小作権の取り扱いに対する不満、小作地の引き上げを図ろうとする地主と小作の紛争など問題が多かった。特に、砺波地方には「慣行小作権」が存在していたので、農地改革の実施が容易でなかった。

 しかし、厳重な連合国総司令部の指示や、国・県の提督があり、また、表彰制度もあって、砺波市では地主の全面解放への協力が得られなかった出町の市街地周辺部などの一部をのぞいて、ほとんど小作地が解放され、多くの自作農が生まれた。


・農地改革と慣行小作権

 農地改革の実施にあたって、前に述べた砺波地方独特の「慣行小作権」の取り扱いが問題となった。売り渡しの際に、小作権をどのように評価し、又小作をどのように扱うかである。具体的に言えば、農地の売り渡しは誰に対して行なうかである。

 慣行小作権の存在している砺波地方では、小作権者が地主の許可なしに他人に小作させることが、明治末期のころから始まっていた。小作権者の田を耕作する、又小作者の存在があったのである。農地委員会によっては、最初に小作権者を売り渡しの対象とした。当然のことながら、現実に耕作している又小作者などから反対の意見が続出し、又小作者に売り渡されることになった。改革に強い不満を示したのは、地主より小作権者であった。不満をもつ者は、異議申し立てを行ない、それぞれの事情に応じて解決が図られた。

 次に問題となったのは買収費の配分であった。従来小作権の強かった東野尻村の農地委員会は小作権の存在を認め、小作権者に有利な買収費の配分方法をとっている。

 いろいろな経過をたどったが、とにかく、この改革によって地主制度はなくなり、永く続けられてきた高持ち(所有権)田んぼ持ち(小作権)をわけて考える慣行小作権は姿を消した。家の周囲にある耕作地は、本当に「自分の田んぼ」となった。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

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