6現代 庄川流送の終焉
2015.2.5
小牧ダムの建設と庄川流木争議
小牧ダム
氷見出身の実業家である浅野総一郎は、庄川の豊かな水を発電に利用するため、庄川の水をせき止めてダムを作ることを計画し、大正8年に富山県の許可を受けました。このことが庄川流域の人々に伝わると農民や漁民などから反対の声があがりました。とりわけ木材業者や流送従事者たちはダムができると木材を流すことができなくなり大きな損害をこうむると、裁判に訴えました。
8年間にわたる法廷での争いの結果、木材運送の権利が認められ、それを侵害した電力側に賠償するよう判決が下されました。これを「庄川流木争議」といいます。
この判決にもとづき、電力会社はダムに木材を運ぶための設備も設置しましたが、しだいに陸上輸送へと切り替えられ、庄川の流送は姿を消してしまいました。
浅野総一郎と小牧ダム
浅野総一郎像(庄川水記念公園)
これからの産業発展のために必要なのは「電源開発」であると考えた氷見出身の実業家浅野総一郎は、大正2年(1913)に初めて庄川を視察してその威力を確信し、川を堰き止めてダムを造りそれを発電に利用するため庄川水力電気株式会社(現在関西電力株式会社)を作りました。
大正15年に本格的な工事にかかり、完成したのは昭和5年でした。高さ80m、堰堤の長さ300m、17門のゲートを備え、最大出力は7万2000kwです。このダムは日本最初の大型ダムで、建設された当時は東洋一を誇りました。平成14年には、本格的な重力式コンクリートダムとして国の登録有形文化財となりました。
【砺波郷土資料館『流送に生きた人々展示図録』平成26年より抜粋】
小牧発電所