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1庄川町のあけぼの(その2)

2016.2.25

1原始の庄川びと

松原遺跡の特徴


 松原遺跡については、すでに『庄川町史』や『松原遺跡跡緊急発掘調査概報』などで、その状況がくわしく述べられているので、ここでは調査結果をもとにその特徴をみてみよう。遺跡の特徴は、遺物の中でも特に、縄文土器の分布状況とその移りかわりに見出すことができるが、あまり専門的になるので、彼らがつくった集落の発達過程を中心に考えてみたい。

 それには、住居跡の分布状況を知ることが先決である。といって、松原地内全域を発掘調査することは至難なことだけに、昭和49年秋、県教育委員会に委託、緊急発掘した松原地内、特に第3地点(織田吉雄氏の住宅・工場付近)について考えてみる。

 この調査によって、多くの遺物のほか、未掘2棟を含め竪穴住居跡が13基、その他、使途不明のピット(穴)5基が検出された。特に西側中央部では、約250平方メートル(およそ12m×20m)の範囲に、住居跡11が密集、重なりあっていることが判明した。またそのうち、住居跡内に炉跡(ろあと)をもつものは7基発見された。住居跡のうちで、特に注目されるのは4号住居跡で、一般に見られるものは短径・長径それぞれ4〜6メートルが標準であるのに、4号は、南北に11メートル、東西に約7メートルの長楕円形となっており、普通のものより約3倍の広さで、しかもその中には炉跡が2基あったものと推定される。この大形住居跡は、当時、県下では朝日町不動堂(ふどうどう)遺跡の大住居跡(長径17m・短形8m)についで2番目の大きさであるとされた。

 これらの調査・検討の結果、松原遺跡は中央に空間(広場)を持つ、弧状集落の可能性が強いことが明らかとなった。しかし、弧状は連続するものでなく、三地点以上に分かれ、特に第3地点の住居跡の重なり具合、遺物の特徴から、集落は大きく三期、細かくは四段階にわたって構築された。住居跡は時期が下るにしたがって、小型化する傾向にあり、その中で特に、V期bにあたる段階で3メートル級の小形住居跡(第8号)がT期の住居跡にされに深く掘りこみ、重なってあった。遺跡周辺には、同時期の規模の大きい遺跡はみられず、特定の台地を占有し、長期間生活が営まれたと考えられる。また第T期に属する大形住居跡は本例以外には検出されなかったが、不動堂遺跡など同時期の遺跡の例から単独存在は考えられず、大形住居跡を伴った集落構成を知る上でも、今後の広域調査に期待するところ大である。

 なお、第3地点は、縄文時代中期前葉(上山田古式)にはじまり、中期後葉(串田新T式)で終わるが、時期的に盛衰がみられ、松原V期bの段階が最盛期であったと考えられる。この時期の土器群を松原式土器として新しく設定(標式遺跡)されたことは意義深い。石器については前述したように、膨大な量の石錘(せきすい)と磨製石斧、擦石(すりいし)が多く、逆に、石鏃(せきぞく)(やじり)、打製石斧は少なかった。これは、動物タンパクを後背地山々の獣類より、むしろ、大河庄川の魚類に求めていたことが明らかである。

 さて、これらの調査結果を基に、庄川びとの生活文化について諸文献を参考に考えてみよう。

 

庄川びとの生活・文化

 
 縄文時代の社会には、まだ階級の差がなかった。数戸または十数戸からなる集落の人々は、互いに力を合わせて暮らしていた。まわりの自然は山や川。海の幸に満ちていた。と言えば、この時代の生活は楽園のように見えるが、荒々しい自然に取り囲まれた彼らの毎日は、けっして安易なものでなかった。暴風雨・洪水・日照り・害虫の発生、また落雷などでおこる恐ろしい野火・・・。

 狩猟・漁業の技術の発達していなかった早期・前期では、多くの家族が一か所にあつまって住む必要はなかった。むしろ食料確保のうえからは人数はあまり多くない方が安全で、2戸10人前後が共同生活を営んでいたと考えられる。中期となって集落の規模も大きくなるに従って、台地の縁辺にそって弧状あるいは馬蹄(ばてい)形に20〜60戸の竪穴住居が立ち並んだ。そして、中央に広場ができる。おそらくここは集会場としてりようされ、集落の祭りや会議の場となり、共同作業場ともなったであろう。こうして原始共同体が成立した。この共同体の多くは血縁関係がもととなり、そこには族長が集落の長(おさ)となって、その指導のもとに助け合って働いた。

 このように、集落の規模が大きくなってくる縄文時代中期以降の遺跡からは、しばしば石棒(せきぼう)と呼ばれる特殊な石製品が発見される。まるい棒の両端または一端ふくらみ(くびれ)をつけ、ていねいに彫刻したりして形をととのえた石器で長さ1メートル前後の大形のものと、4、50センチの精巧なつくりのもとがある。

 松原遺跡からも第1地点から大形のもの、第3地点から後者のものが発見された。第3地点のものは下部が折れて、長さは24センチばかりのものであるが、周囲の四面にそれぞれ円と三叉文を組み合わせた彫刻が施してある。この用途としては、武器その他の実用の道具として考えられず、宗教的あるいは儀礼的な意味をもつ石器で、族長の権威を示すものとされている。宗教的と言われる理由の一つはその形が性器崇拝の対象とみられるからである。

 一方、第3地点から土偶(土でつくって焼いた人形)が発見されている。腕部及び下半身を欠くもの大小それぞれ一点と、腕部のみが二点出土した。きびしく、荒々しいしぜんの中で生きてゆくためには超自然的な力にたよらざるを得ない。この時代は呪術(じゅじゅつ)の重んぜられる社会であったに違いない。呪術の力によって自然の猛威をなだめ、やわらげ、生活に安心感をもたらそうとしたと思われる。土偶の大きな特徴は、ほとんど女性の像であることで、縄文早期・前期に属する遺跡からの発見例は少なく、そのわずかな出土例でも、表現が幼稚で、乳房のふくらみで女性像であることがわかる程度である。

 土偶の製作が写実的になり、精巧になる中期以降では、乳房を誇張したり、腹部を大きくして妊娠をあらわしたり、なかには女性の性器を示した土偶もある。これらの土偶が、単なるオモチャや装飾品でないことは、土偶の表現自体から感じられるが、特別の設備をつくり、土偶を安置した遺構が時々発見され、土偶が祭りや祈りの対象であったことが推定される。

 松原遺跡の第3地点の出土例でも、前述した3メートル級の、家族(3〜5人)が住んでいたとは思えない小形の住居跡(第8号)と、少し時代がさかのぼる住居跡(第2号)との重複部から2個発見されており、小形住居跡は祭りと関係があったものと推測される。土偶には手と足の一部の壊されたものが多いことは、病気やケガをしたとき、土偶を身がわりにみたて、悪くなったところにあたる部分をこわして、平癒(へいゆ)を祈ったのでないか、といわれている。

 土偶は呪術の行なわれたことを示し、石棒は祭祀の具であり、同時に司祭者である族長の権威を示す品(シンボル)である。これらのことは前述したように、縄文中期に集落の規模が大きくなり、その人口が増加したことと関係があるだろう。自然の条件に恵まれたとはいえ、大きくなった村を維持してゆくのは、なかなかたいへんなことである。狩猟・漁業や木の実の採取のような、自然にたよる採集経済では、増加した人口に見合う食糧を獲得しつづけることは困難である。動物を濫獲(らんかく)すれば、その動物を繁殖をさまたげ、数年後には収穫量は増減することになるだろう。天候の不順な年がめぐってきて、一時的に収穫量が減少しても人口が多いと受ける打撃も大きい。

 しかも、中期の頃から気温は徐々に低下をはじめ、陸上の生物にとっては暮らしにくい条件がおこったのである。縄文人の平均死亡年齢は、縄文後期以後晩期にかけて低下、すなわち短命になったといわれている。これは生活環境の悪化を示している。稲作も行なわれていないこの時代、『庄川びと』に」とっては、今では心地よい庄川嵐も、冷たく身を刺したであろう。こうして、庄川びとは、住み慣れた庄川の地を去り、暖かく住みよい土地にむかったのかもしれない。そのことは、庄川町域からは縄文後期、そして、新しい稲作技術と鉄器文化を持つ弥生時代の遺跡が発見されないことがそれを物語っている。



【榎木淳一著 村々のおこりと地名<地名のルーツ=庄川町>昭和54年より抜粋】