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1庄川町のあけぼの(その3)

2016.4.7

2雄神川(庄川)と古代文化

原始から古代社会

 縄文時代(中期)に活躍した『庄川びと』はその後どうしたのか。縄文時代の次に弥生時代、次に古墳時代がやってくる。すなわち古代へと歴史が大きく移るわけである。水稲耕作がはじまり、鉄・銅などの金属器が大陸から輸入された弥生時代は、約2,300年前(B.C.3世紀)から1,700年前(A.D.3世紀)までつづいた。

 水稲耕作が発達すると、耕作に適した土地を支配する権力者があらわれ、国をつくるようになった。初めは小さな部落国家であったが、やがて呪術的な原始宗教の権威や武力、あるいは鉄や銅などの独占によって強力な統一支配者があらわれるようになった。これが古墳時代で、古墳はこのような権力者のシンボルとして用いられたのである。古墳時代3世紀末から6世紀中頃までつづいたが、その中心は大和(やまと)盆地(奈良県)や河内(かわち)(大阪府)など近畿地方であった。庄川町域にこれらの弥生・古墳両時代の遺跡は現在まで発見されていないが、第二の『庄川びと』いつ、どこからやってきたのだろうか。

 日本の古代史に対する関心は、近年とみに高まり、世に“古代史ブーム”などといわれるほどである。次々に古代史関係の論著が出版され、新しい見解がいろいろな角度から提出されている。このような状況でありながら、未だに4世紀のみならず、5世紀についても真相が明らかにされず“謎の世紀”といわれている現今である。

 古代史の研究に、記録・文書あるいは木簡(もっかん・文字の書かれた木札)・金石文(きんせきぶん・金属の板あるいは石材などに記された文などがなくてはならないことはいうまでもないが、ところが4世紀のわが国では文字がつかわれたことを立証できないばかりか、5世紀においても文字使用の確実なものは少ない。

 『古事記』や『日本書紀』には、なるほど「神代(かみよ)」以来の歴史が記録されているのだがこの両書の完成は8世紀はじめ(奈良時代)であって、4、5世紀のことがしるされていても、それをそのままうのみにするわけにはいかない。それこそ「神話集」といわれるゆえんである。この神話の大きな特色は皇室の祖先神とする天照大神(アマテラスオホミカミ)を中心とした高天原(はかあまがはら)の世界を詳細に描いて、皇祖神の子孫が葦原(あしはら)の中つ国に天降り、この国土を平定することに力点をおいているところにある。

 このように『古事記』や『日本書紀』には、7世紀後半から8世紀はじめにかけての、朝廷および政府の編集目的が背景として存在しており、権力者の立場に基づく伝承の整理や改変、潤色や加除もなされているといえる。これらの神話に対して、ようやく統一国家としての「邪馬台国(やまだいこく)」、そして女王「卑弥呼(ひみこ)」などが、考古学上あるいは中国史書『倭人伝(わじんでん)』なおに浮上してくるのは、近世になってからで、これらの論争は、近年特に活発になっている。

 

越ノ国と渡来人

 日本海の荒波が打ち寄せる沿岸地帯にあって、近江(おうみ)から北の北陸地方を、古くから「越=高志」とよばれた。越は、後に越前・越中・越後の国に分立した。越は重要な役割を果たしていた。その一つは国家的事業などの労働力の供給源として、今一つは蝦夷(えぞ)対策の拠点、補給基地としてであった。

 しかし、『古事記』や『日本書紀』に描かれた越のイメージは、地理的にも政治的にも謎のベールにつつまれた部分が多く、物語は、中央政府による征服・統一・監察といった中央権力による地方の支配過程を中心においている。これによれば、越の国に中央の命令に服従せず抵抗を示した人々の存在した様子が知られ、その鎮圧を使命とした使者が軍事力をともなって越へ下った形跡が示されている。

 一方、政治的性格だけでなく、『古事記』に描かれた大国主命(オオクニヌシモミコト)の求婚伝説のように、越地方と出雲地方(島根県)の交流をうかがわせるロマンに富んだ物語もある。この類話は『出雲風土記(733年成立)』にもみられ、この出雲の大国主命と越の沼河比売(ヌカワヒメ)との物語の背景には、出雲地方と北陸地方の間に政治的、経済的な交流がもたれていた実情を推察することができる。

 され、別の角度から越の国を訪れた渡来人についてみてみよう。『日本書紀』の「大八洲(おおやしま)生成」の条にみえる大洲(おおしま)の洲は、シマと読むより、クニの発音でなければならない。越洲はコシノシマでなくコシノクニであり、またここでとりあげている大洲はオホの国と読むべきである。ではオホの国とはどこか。いうまでもなく神話のなかで活躍する大国主命の本拠、出雲地方をさしている。ここが大洲であったことは、出雲地方に今も「大(オホ)」という地名が多いことでも立証されよう。

 大国主命をまつる種族は、もとから出雲にいたのか。おそらく北九州を含む山陰西部地方に勢力をもち、時には、九州岡(遠賀(おが))地方にも根拠地があったと想像される。このオホ族のその後の移動について、さらに想像を発展させてみよう。

 鉄器文明をもつ北方民族の朝鮮からの南下に、オホ族は国を譲って東へ、東へと移動した。まず一族は出雲地方に古代社会を次第に拡張し、別の分派は中国山脈をこえて岡山の吉備(きび)地方に進出し、やがて瀬戸内ルートから河内(大阪府)に上陸してゆく。いわゆる古代大和社会の形成となるが、一方、出雲の文化は、対馬(つしま)海流にのって丹後(たんご)地方に小憩の後、日本海沿岸を東へ移ってゆく。やがて能登半島につきあたり、富山湾になって来るのである。

 それではオホの国をつくった『オホ』族とは何か。いうまでもなく海に活躍した倭人(中国人などが日本人を呼んだ古称)の一部といわれている。こうした倭人の動きは、弥生中期と限った年代でなく、それ以前の久しい古代からあった。彼らは、海流のおもむくまま、季節風の吹くまま、東へ、東へ海路をたどり、自然の営みにまかせ、大陸の沿岸伝いに、ユートピアを求めて移動をつづけた。あるものは朝鮮西側の沿岸を南下し、あるものは勇敢にも単舟を操り、中国大陸江南地方あたりからも集団となって、波状的に東支那海をわたり、対馬海峡に漂流した。

 対馬海峡に渡来した彼らの定着地は、南朝鮮や北九州の区別がなく、対馬海峡原始国家ともいうべきスタイルであった.この地が、稲作技術・弥生式土器の最初にもたらされた地であり、ここは、まさに日本史上画期的な土地であったといえる。彼らは、漂泊漁猟生活を基盤にしていたが、採集全般にわたって収穫は豊凶不定期で、自然の制約を受けることが著しいため、当然呪術的加護を必要として。弥生文化が徐々に東に移って水稲栽培が普及し、その後、食糧の不安は少しずつ減少したものの、やはり原始産業である以上は、気候・風土の影響が依然としてきびしかった。そのため、自然崇拝、山岳信仰と並行して穀霊(米など穀物のたましい)信仰がさかんに行なわれていたと思われる。

 この対馬原始国家から、さらに対馬海流にのって山陰地方、能登半島など日本海沿岸に多くの人々が渡っていった。その種族は北陸地方だけでも、前述のオホ族、その他、川人(カワト)族・アヅミ族・カヅミ族・布施(フセ)族・新羅(シラギ)族・高麗(コマ)族・阿努(アヌ)族など十数種を教えたといわれる。もちろん、対馬海流にのってきたこれらの人々のほかに、同時期もしくはそれより早く、リマン海流(寒流)によって、沿海州(シベリアの東南端)や朝鮮東岸から、北方種族とその文化が独自の形でもたらされていたかもしれない。というのは、日本海の北方からのリマン海流が、朝鮮半島にぶつかって南下、北上してくる対馬海流(暖流にぶつかり東にむきを変え、並行あるいは合流してやがて能登半島に達するからである。

 これらの海からの渡来人を総称して「海人族」というが、彼らは、海岸だけでなく河川をもさかのぼり、その流域をきりひらいた。多くの海人族のなかには小矢部川(当時庄川は小矢部川に合流しており、河口は一つであった。)をさかのぼった一族もいた。

   

流路と名称のうつりかわり

 雄神川は庄川の古名としてよく知られている。現在の庄川は庄川町雄神地区を縦断、中田(高岡市)、大門町を流れ、新湊市の六渡寺に河口を持っている。しかし、かつてはこの水系こそ支流で、庄川町金屋地内から西に、現在の新用水(第三河岸段丘崖)に沿って井波・高瀬・福野を流れ、津沢(小矢部市)の箕輪(みのわ)あたりで、小矢部川の主流へ合流していた。もちろん数万年以上前の地質時代には、第三段丘上(松原地内・示野)、第二段丘上(ポンポン野・金屋たんぼ)を庄川が流れていたこともあるが、少なくとも応永13年(1406)の洪水以前は、高瀬神社付近へ流れていたという諸記録がそれを立証している。後の野尻川というのも古い庄川の川跡といわれている。

 いずれにしても、庄川はその変遷とともにその名称もまちまちであった。昔は領土意識が強く、ことに封建時代にあっては領土が異なれば他国である。したがって河川名も、大きい川は「大川」であり、集落を中心にした場合、「前の川」、「後ろの川」と呼び、また「高瀬川」のように、地方の諸記録には、その土地の地先名で呼ばれる場合が多かった。

 庄川は古く雄神川と呼ばれ、雄神神社と深い関係にあるといわれている。庄川の名のおこりには諸説あるが、一般的なものをあげると、中古、雄神神社を中心に雄神の庄と呼ばれていた。その間を流れていたので「雄神庄川」といわれた。それが後になって、単に「庄川」といわれるようになったものという。したがって、その古名の雄神川も起源は同じであろう。

  川の営みをみるとき、川とは同じ河身を保つものでなく、大雨ごとに気ままに変化するものである。小矢部川との合流地点も次第に川下へと移動した、今、小矢部川周辺で、雄神川との合流点を地名のうえでさがしてみると、津沢の北方の水落(合流点を示す)や水牧(牧は牧場の牧ではなく、水が逆巻く巻で合流点を示す)が想定される。合流点はさらに下流、福岡町周辺にも移り、庄川の主流も、中世の頃には中村川から高岡の千保川へと変わっていった。

 時とともに、庄川の流れが川下へ下がっていく経過をふりかえると、砺波平野は久しい間、ほとんど庄川の河床や川原となって、天日のもとにさらされてきたのである。幾つもの川が網目をはりめぐらしたような中に、うっそうとした草の生い茂る州と丘があちこちにあった。

 こうした庄川の水が小矢部川に注ぎ込んだ合流点の川上を古代において「雄神河」、川下を「射水河」と呼んでいた。

  

オホ族の雄神川進出


 その頃、氷見地方の布勢水海(ふせのみずうみ)にはフセ族が、射水川河口付近にはカワト族が住みついていたが、オホ族にはさらに射水川をさかのぼっていた。

 小矢部川左岸の山麓の小矢部市、福岡町・高岡市域には、かなり古くから定着していた種族がいたらしく、縄文・弥生・古墳時代の遺跡が多くあることがそれを物語っている。代表的な古墳に若宮古墳・桜町横穴群(小矢部市)・馬場横穴郡・城ヶ平横穴郡(福岡町)・江道横穴群(高岡市)が知られているが、同地区で最近(53年春)、300基以上小野高塚古墳(前方後円墳・後円墳・円墳。方墳)が発見された。従来知られていた古墳は、そのほとんどが横穴古墳であったことから、新しく発見された多数の古墳について、更に詳しい調査が待たれている。

 一方、小矢部川流域の古い地名に、『オホ族』の集団をしのばせる地がある。平安時代ですでに失せたという「大岡郷(旧石動地内)」、その下流に、「長岡郷(現在右岸の福岡町『中岡』と関係あるか小矢部市域の『岡』村がその名残りか。)」がある。長岡郷の下流には赤丸・三日市を含む「大野郷」があり、大野を示す小字も多く散在している。これらの地名はいずれも『オホ族』のオホもしくは、その転訛したものと思われる。

 また、前途の雄神川と小矢部川の合流地点だという水落・水牧地内に隣接して小神(オコウ)村がある。この小神村が『語ろ』の上から雄神川の雄神となんらかの関係がありそうである。雄神が小神と変化することは考えられることで、古代日本人が、神(カミ)と発音しにくい一例として、神様をカアハンと呼んだように、神を『カア』と発音する。雄神の発音もオガミが正しい表記もオガミが正しい表記であったにせよ、『オカウ』の転訛であったとしても変でない。

 小矢部市『宮家由緒書』によると、旧松沢村の小神(おこ)神明宮は、庄川の大氾濫で流れついた庄川町の雄神神社の御神体をまつったのが発端といわれている。人々はそこら一帯を開墾し雄神村と名づけ、その後小神村と改めたという。雄神神社でも同様の伝えをもっているが、仮に伝説であったとしても、むかしの雄神川の流れを物語るものといえると同時に、雄神信仰に深い関係があると思われる。庄川町の雄神神社が河流の分流点にあったように、この小神の地も当時の河流の合流点に位置し、水の岐神(クナドノカミ=神話に登場する神)をまつるにふさわしい地であったであろう。むしろ、川上の雄神神社あたりに進出する前、雄神信仰はここにあったのではないか。

 もっと推論を進めるならば、「雄神」は「大神(オホの神)」すなわち、射水川をさかのぼった海人族、オホ族がまつった水神でなかったか。大岡郷をきりひらいたオホ族の一派は、さらに雄神川をさかのぼって終着駅の雄神へ進出したのでなかろうか。その中間地点には高麗権現(こうらいごんげん)の遺称もある高瀬信仰も、ある時期に結実したのかもしれない。高瀬の地名は、一般的に川の瀬の高いところという意味からつけられたといわれるが、一説には大陸渡来人である高麗(こま)人が住みついた地であるという。高麗のコウライが高瀬となったというのである。この地方に高瀬神に関する地名(旅川—足袋川・雨潜野など)伝説が多いことがそれを物語っている。

  こうして庄川(雄神川)をさかのぼったオホ族が、最初に庄川町域に住みつき、大神(オホ神=雄神)をまつり、その周辺をきりひらいた。すなわち、第二の『庄川びと』となったのは、海人族であるオホ族であったといえないだろうか。

 以上のことから、庄川町域で現在に残る一番古い地名が「雄神」あるいは「雄神郷」であるといえる。ただ、残念なのは、未だかつてこの地区(庄川町雄神地内)で、弥生時代・古墳時代の遺跡が発見されていないことである。しかし、壇ノや間(弁天温泉のあるところ)あるいは、広谷川の流域から、かつて、耕作者が土器を採取したとの知らせをくれたことがあった。それらは、土師器(はじき)の類で、カメの破片であった。雄神神社の旧社地より奥まった広谷ちなみは、今では圃場整備がなされて、昔のおもかげはないが、それ以前は、四方が山に囲まれ、あちこちに小高い丘がみられ、なんとなく古代人のユートピアを感じさせたものであった。

 なお、雄神郷についてみると、『和名鈔(わみょうしょう・平安中期—
937年—日本各地の地名など文字のいわれを集録した辞書)』に砺波郡川上(加波加美)郷がみえるが、雄神は上流地帯の一部を占めていたにせよ、総称する観念的俗称と、行政区分による呼称の2つが入り交じっていたもので、日常のならわしは、時代の推移とともにかわっていったとみてよい。

 以上、地名などに、オホ族の足取りをみてきたが、奈良時代(701年〜)は、その前代から波状的に渡来してきた各種族によって、言語享有量(生まれながら身につけている言葉の漁)は日本史史上最高を示し、まして文字は後になって発音に合わせてたどたどしくあてはめられた記号である以上、かなり無理な文字や発音があったであろう。



【榎木淳一著 村々のおこりと地名<地名のルーツ=庄川町>昭和54年より抜粋】