『砺波の歴史』

  • 2018.10.22
    T−C原始・古代の日本『家持と志留志』1〜3
    万葉の歌人、大伴宿祢(すくね)家持は746年(天平18)28歳の青年国守(国司の長官)として越中国府に赴任した。それからの5か年間、国守として越中国を巡回するうちにこの砺波地方で詠んだ歌を万葉集に載せている。 まず、新任の家持の館での宴に同席した僧玄勝が大原高安真人の詠んだ一首を…
  • スポーツ行事
    2014.9.4
    X−C現代の砺波『のびゆく砺波』4・5
    住みよいまちづくりをめざして、産業の育成のみならず、心豊かな人づくりにも力を入れている。まず、市民の健康を守るために医療機関の充実が図られている。1981年(昭和56)に砺波厚生病院が市立砺波総合病院と改称し、2年後に増改築を終えて近代的な医療施設が完備された。 また、日常のくら…
  • 圃場整備による耕地の移り変わり(小島地区の例)
    2014.9.4
    X−C現代の砺波『のびゆく砺波』1〜3
     日本の食糧事情が安定した昭和30年代後半から40年代にかけて、日本はちょうど高度経済成長期に入っていた。1961年(昭和35)に農業基本法が制定され、農業をとりまく事情も大きく変わり、農業経営規模の拡大と農作業の合理化が急務となった。水田単作地帯である砺波市でも、生産増大と作業…
  • 図
    2014.9.4
    X−B現代の砺波『町村合併と砺波市の誕生』
     戦前の町村が市に昇格するには内務大臣の許可を必要としたが、戦後の1946年(昭和21)からは、都道府県知事の許可があれば市に昇格できることになった。富山県下でも町村財政の貧困、戦後の復興、経済界の混乱、地方公共団体業務等たくさんの仕事が山積みされ、小さな村の経済では四苦八苦の村…
  • 図
    2014.9.4
    X−A現代の砺波『食料増産への道』
     戦後における農村変化の基礎は、農地改革である。しかし、農地改革が実施されてから数年間は、土地を得てきそって食料増産に励んだ。しかし、敗戦直後の肥料・農機具などの不足と、戦時中からの地力のおとろえで、効果はあがらなかった。 農地改革の効果があらわれてきたのは、1955年(昭和30…
  • すみぬり教科書
    2014.9.4
    X−@現代の砺波『戦後の民主化』4
     1945年(昭和20)8月15日、子供たちの多くは「玉音放送」を知らなかった。たまたま砺波地方の青年学校の男子生徒たちは、少年志願兵の試験先である、福野小学校の校庭で敗戦の玉音放送を聞かされた。数日後、各学校に児童、生徒が召集された。そして、校長が終戦の詔書を奉読し、戦争に敗れ…
  • ヤミ米の取り締り
    2014.9.4
    X−@現代の砺波『戦後の民主化』1〜3
    ・敗戦と食糧難 1945年(昭和20)8月15日の正午、敗戦を告げる玉音放送があった。人々は悲しみとともに戦争のむなしさをかみしめ、これからの生活を心配しながら敗戦の日を迎えた。この日から空襲警報はなくなり、電灯が明るく輝き始め、この中で、今までの戦いとうって変わって、生活をたて…
  • 学童疎開の写真
    2014.9.4
    W−C近代の砺波『戦時下の生活』
     1931年(昭和6)に満州事変が起こり、15年に及ぶ大戦争の火ぶたが切られ、わが国は軍国主義体制へと向かった。1937年(昭和12)に日中戦争に入り、1941年(昭和16)に太平洋戦争に突入していった。政府は、「非常時」として節約・節制を強調し、農村の窮状をそらすとともに、在郷…
  • 水野豊造
    2014.9.4
    W−B近代の砺波『移りゆく農村』4・5
     慢性的な不況の中で、苦しい生活をしいられてきた自作農民は、なんとか収入を得ようと、さまざまな副業を試みた。その中で、今では県の花にもなっているチューリップ栽培が、大正時代にこの砺波で始まった。1918年(大正7)、庄下村矢木の水野豊造は、種屋からのカタログから見つけたチューリッ…
  • 慣行小作権の売買された地域
    2014.9.4
    W−B近代の砺波『移りゆく農村』1〜3
     明治になると、川あとも開かれ、一面に水田が広がり、今と変わらぬ一大穀藏地帯をなしていた。しかし、今と違うのは、そこに複雑な土地所有関係があったことである。土地を所有しているのは地主、その土地を耕しているのは小作人である。ほかに自作者も多くいた。地主と一口と言っても、自ら熱心に耕…