砺波野の草相撲の力士たち

  • 出町の貸座敷業(『加越能力士大鑑』)
    2015.2.5
    6-1砺波野の相撲の中心地 出町
    出町にはもと西と東の二箇所に遊郭街があったが、明治初年の政府通達により西の遊郭は廃止され、西で商売をしていた人は廃業するか東へ移るかの選択を余儀なくされた。(前記花見山・櫻山は廃業) 当時、出町には相撲取りで遊郭を営むものがかなりいたと推定されるが、確実なのは次表の人々…
  • 鬼ヶ崎政吉
    2015.2.3
    5-4砺波野の相撲をリードした越中国相撲頭取たち
    十三代目頭取 鬼ヶ崎政吉 (出町 宮本政吉)安政6年(1859)7月1日生まれ。若い頃、東京大相撲の幕下4枚目まで進んだ。明治20年(1887)に金沢で行われた金沢・加賀・越中の合併相撲には、東の大関に「東京 鬼ヶ崎政吉」とある。また、この番付には「大関」であるとともに…
  • 谷川七次郎肖像画
    2015.2.3
    5-3砺波野の相撲をリードした越中国相撲頭取たち
    八代目頭取 谷川七次郎 (中神 谷川七次郎)  天保6年(1835)、小島村(現砺波市小島)に生まれ、明治初年までには出町(地所は中神)へ居を移したと思われる。 若い頃から多くの門弟を育てることに力を注ぎ、家の裏庭に弟子のための二階建ての小屋を作り、…
  • 相撲対戦表(砺波市矢木 個人蔵)
    2015.2.3
    5-2砺波野の相撲をリードした越中国相撲頭取たち
    由良戸常吉(太田常吉)瑞泉寺で最も古いと思われる大関額の中に記された相撲年寄12名の内の一人である。明治5年(1872)に矢木村で行われた相撲の世話役にも名が上がっている。明治7年に太田で建てられた石碑(後述力士碑51-4)に名が刻まれている。
  • 出世相撲定事
    2015.2.3
    5-1砺波野の相撲をリードした越中国相撲頭取たち
    (「出町史料」砺波市立砺波図書館) 天保8年(1837)、江戸相撲年寄浦風林右衛門が越中に下向し、初めて国頭取を設け、相撲講を結んで相撲の定書を作った。
  • (高岡市戸出町 個人蔵)
    2015.2.3
    4明治時代の番付
    明治5年3月 相撲の興行は夏場に多く、春3月に相撲を行なうのは珍しい。3月2日は春祭りの日だと思われる。
  • 九文龍の石碑
    2015.2.3
    3江戸相撲で活躍した戸出出身の二人の力士
    九文龍清吉九文龍清吉は、行兼村(現高岡市行兼)吉右衛門の枠で、身長6尺7寸(2m3cm)、体重43貫(172kg)の、手のひらに1文銭9枚を横にならべられるほどの大男であったという。天明年中(1781〜1788)江戸に出て当時の最高位であった大関をつとめた。寛政年中(1789〜1…
  • 「御用諸触留 宝暦七年 地」川合文書
    2015.1.30
    2、砺波地方の相撲の嚆矢(こうし)
    宝暦七年、加賀藩は、戸出村の神事相撲の際などに不届物を取締まるように申し渡す(「御用諸触留 宝暦七年 地」川合文書 富山大学付属図書館蔵)宝暦7年(1757)7月、加賀藩は神事の時など、相撲のうえに不届きの行ないをする者がいた場合には召捕えて指出すように、各郡の十村へ触れた。具体…
  • 『日本書紀』 垂仁天皇七年七月七日の条
    2015.1.30
    1、相撲のはじまり
    野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(とうまのけはや)の「捔力」の様子を伝える『日本書紀』 垂仁天皇七年七月七日の条(『日本書紀』慶長15年影本 富山県立図書館蔵)「二人は、相対して立ち、各足を挙げて蹶み折き、(宿禰が)当麻蹶速の脇骨を蹶み折り、その腰を踏み折…