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B−1散村の暮らし

2014.5.20

(1)村のまとまり

青島地区の獅子舞

青島地区の獅子舞

砺波平野にある農家の多くは、家の周りにある自分の水田を耕しています。そのために、それぞれの農家は、隣りの家と離れて建っています。その農家の周囲は、カイニョといわれる屋敷林で包まれています。家々が点在しているというよりも、小さな森が点々としている風景に見えます。このように散らばっている農家の人々ですが、お互いにいろいろと深いつながり合いをもちながら暮らしています。

 砺波市には深江、旧福野町には野尻という地名があります。この深江というのは、江戸時代には深江村という村で、野尻は、野尻村という村でした。このように現在の大字となっている地名の多くは、江戸時代には、それぞれ村の名前でした。江戸時代の終わり頃、旧砺波郡には五箇山の村々も含めて、ちょうど700の村がありました。

 これらの村は、村人たちの暮らしのまとまりであるとともに、行政の末端を担う一つの単位でもありました。江戸時代には、村ごとに年貢として納める米の数量が決められていました。そのために村人は、お互いに協力し合いながら、凶作の時も一定の年貢米を藩に納めていました。

 村を単位としたつながりには、村の氏神を中心にした氏子としての集団もあります。豊年を祈る春の祭り、そして、子どもや若者を中心にして行灯を制作し明かりを灯して繰り出す夜高祭り、収穫を感謝する秋の祭りの獅子舞などを行います。このように、村には、子ども組、若者組など、それぞれの年齢層によって組織されているいろんな集団があります。

 さらに、農家の人たちは、用水の改修や村の大切なきまりを話し合うために、みんなが集まって相談をしました。その相談する会を「寄合い」といいます。今の自治会や常会がそれに当たります。

 大きな村では、村の中をいくつもの組に分けて、それぞれ寄合いの単位としていました。その寄合いは村役人の家で行われていましたが、今は、公民館や集会場で行われています。

 農業に関係しているつながりには、村という単位よりも広いものと、村の範囲より小さいものがあります。近くの人々と互いに手助けをする「ユイ」などは、そう大きい広がりをもっていません。しかし、用水路の改修や江ざらいなどは、用水の取り入れの村をはじめとして、その用水路の水を利用している数多い村が連帯して一斉に改修工事をしたり、川水を止めて江ざらい作業を行ったりするなど広い範囲のつながりがあります。

 さらに農道の修理や改修、用水の水当番も、それに関係する地域の人々が共同して作業を行っています。このような話し合いや協力がうまくいかないと水争いなどの紛争が起きることもありました。

 また、葬式や火災、水害などでそれぞれの家が困った時なども、近くの人々が積極的に助け合ってきました。さらに、茅葺き屋根の葺き替え作業や家を新築したときの棟上げ作業には、多くの人手が必要でした。そのような時には、親戚の人や近くの人が出かけて来て、みんなで手伝いをしました。

 今も、結婚や葬式などの時などには、本分家や近所の人が互いに協力し合っている例がたくさんあります。また、神社を中心にした氏子としての仲間や青年団、壮年団や老人クラブなどの年齢別の集団もあります。さらに、婦人会やPTAなどの社会教育団体の組織や生産組合などの組織をみてみると、江戸時代からの村の範囲によるものや1889(明治22)年の町村制によってできた明治時代からの村の範囲をもとにしてつながっているものもありますし、宗教的な檀家集団や尼講、地蔵講などもあります。このように、それぞれの家が散らばっているからといって、お互いに結びつきが薄かったわけではなく、お互いに助け合う仕組みがありました。散村は、集村に比べて隣村との村境が見た目にははっきりしませんが、そこに住む人々の結びつきは集村の場合と変わりはありません。

(2)散居の住まい
昭和30年ごろの屋敷平面図

昭和30年ごろの屋敷平面図

屋敷どり

 散居の住まいは、昔と今とでは大きく変わりました。次の平面図は、生活が大きく変わる1955(昭和30)年以前のある農家です。家の周りが自分の家の水田なので、日当たりのよい田に苗代が作られ、冬はわら積み(ニョウ)の場にしていました。また、家の近くの田を自家用の野菜畑にして、自分の家で食べる野菜を賄っていました。

 この屋敷の広さは約1000平方メートルで、水田よりやや高い土地が屋敷に選ばれています。近くの用水から生活用水に使う水が屋敷へ引き込まれています。村の大きい道から屋敷へ細い道が通じ、その入り口付近をジュウグチ(ジョウグチ)といいました。


母屋と付属建物

 母屋は屋敷の後ろよりに東に向かって建ち、前側は物干しなどのためのニャーワ(前庭)になっていました。セド(西側)や南側にはカイニョ(屋敷林)を多くして、屋敷の周りをスンゴシワ(スギの生け垣)で囲みます。ニャーワをはさんで母家と向かい合ってやや北側に納屋があり、土蔵は南東隅に建てられます。屋敷の入り口近くには灰納屋、母屋の北側には風呂場や鶏舎などがありました。


最近の変化

 1955(昭和30)年以前の農家では、秋の収穫時には家の土間に限らず広間にも稲束を入れていましたが、しだいに大きい農作業納屋を別棟で建てるようになりました。そこには大型の乾燥施設も置かれ、何台もの大型の農機具も入れられています。

 さらに快適な住環境を求めて母屋が改築され、家の規模も大きくなりました。また、自家用の自動車が一軒の農家に数台あるようになり、大きな車庫が屋敷の中に作られるようになりました。それまでゆったりとしていた広い屋敷はいくつもの棟の建物ができて狭くなり、屋敷林の減少の原因にもなっています。


クズヤとアズマダチ

 江戸時代から明治にかけての農家の屋根は、ほとんどが合掌組みの茅葺きで、これをクズヤといいました。屋敷の周りや用水のふちに生えていた茅を使っていたのです。

 富山県は入母屋のクズヤが主流でしたが、砺波地方だけは寄棟のクズヤでした。それは、砺波地方は風が強くて、入母屋にすると派風口が吹きまくられる恐れがあったからと考えられます。射水地方では入母屋造りが一般的で、そこに近い砺波地方の北部では、片入母屋といって風当たりの強い南側が寄棟で北側が入母屋という形式のところもありました。

 また、かつてはクズヤの家に混じって切妻妻入(きりづまつまいり)の瓦葺きの屋根も見られました。これをアズマダチといいます。前側の大きな三角の妻面に太い梁と束、そして、貫がます目に組まれ、その間は白壁になっていて、とても印象的です。これは、クズヤの茅葺き屋根をおろして瓦葺きの一枚屋根にしたもので、砺波平野では明治中期から昭和20年代までに流行した屋根の形です。

 クズヤの屋根の多くはやがて葺き替えられたり新しく建て替えられたりして、今はすっかり見られなくなりましたが、アズマダチの家は今も残っていて、富山県西部の民家の一つの特徴になっています。


 間取りの変化

 砺波平野にある民家の間取りは、基本的には広間型ということができます。いろりのある広間を中心として、上手側に二間続きの屋敷があり、下手側に屋内作業をする土間があるという間取りとなっています。前から見て、屋敷の奥に仏壇が置かれ、寝室は広間の後ろ側にあります。

 農家の規模は、広間の大きさを基準として決められていました。広間は2間から2間半四方の広さが多く見られますが、中には3間四方という大きい広間もあります。広間と土間の後ろには茶の間と台所が続き、広間にあったいろりは茶の間に移されました。

 やがて、家の前側と座敷側を広げて接客空間を大切にするようになると、広間の前を囲んで式台が設けられ、土間の前の一部をハスニハ(端庭)としました。また、屋敷の上手に土縁を設けて、その奥に控間を建てるようになりました。

 1965(昭和40)年以後になると、農家の建て替えがピークになりました。家の中で農作業をまったく行わない家の作り方となり、農家というよりも住宅だけの機能をもつ家が増えてきました。新しい家に個性的なものもありますが、入母屋瓦葺きの屋根の家が多く見られます。

 改築された家の多くは、二間続きの屋敷の奥に東向きの仏壇、北側に居間と食堂という従来からの基本形をもとにして、中廊下を設け、外側にも円を回し、押し入れを多くするように変わってきました。また、応接間を設けたり2回に子ども部屋や個室を設けたりする家も多くなり、台所もダイニングキッチンが普及して広くなりました。

 この結果、家の建坪が増えて延べ100坪を超える家が多くなりました。住宅の面積日本一(平成20年総務省「住宅・土地統計調査」による)という富山県の中でも、砺波地方の家は特に大きいことで有名です。


川水と暮らし

 散居が展開している庄川扇状地の扇央部に位置するところでは、一般的に地下水が深く、水が少ない渇水期には地下水位が24メートル、水の多い豊水期でも16メートルというところもあります。さらに、砂や砂利が多いところで井戸を掘ると周りが崩れる心配もあります。このように井戸を掘ることが出来ないところでは、生活用水を川水に頼るほかはありませんでした。

 近くの小川にドンド(堰)を設けて、川水を屋敷まで引いてきます。前足にホワタ(池)を掘り、ここで野菜を洗ったり、農作業が終わって家へ入るときに手足を洗ったりしました。苗代に撒く種籾をこのホワタに漬けることもありました。また、家の前の小川にコード(川処)といて洗い場を作り、ホワタと同じような使い方をする家もありました。

 一方、小川を屋敷の後ろへ回して台所近くへ引き、小さな池に溜めて濁り水を沈殿させて台所水や飲料水に使用していました。流し尻の外にはツボという浅い穴を掘り、排水を溜めます。春先には「ツボダシ」といって、ツボに溜まった土を家の周りの田へ出して肥料としました。しかし、雨天の時には川水が濁ったり、上流でチフスなどの伝染病が出ると下流にも広がったりする恐れがあるので、上水道が必要だという声が強くなり、市街地の出町地区(今の砺波市の中心市街地)では1923(大正12)年に上水道が敷設されました。

 村部でも川水から井戸水へ移行するという動きがありました。しかし、散村地帯の扇央部では、地下水の水位が深くて井戸を掘る家もごく限られていました。そこで、全国各地にある散村地域の中でも比較的早く1954(昭和29)年には、上水道の敷設が始まったのです。その後、上水道は、次第に砺波平野一帯に普及していきました。

さらに、散村という困難を克服し、砺波広域圏を母体にした下水道事業も砺波地方全体に行われました。

(3)四季の行事

左義長

 1月14日のサツキ(小正月)には、それぞれのムラでサンゲチョ(左義長)をします。数日前から子どもたちがムラの家々を回って竹やワラ・豆がらなどを集め、当日、田んぼでそれらを円錐形に組み上げます。そして夜になってそれに火をつけるのです。

 村の人たちは、手に手に神棚にあった古いお札や子どもの書き初めなどを持ち寄り、その火で燃やします。書き初めの燃えた紙切れが空高く上がると、手習いが上手になるといって喜びました。また、左義長の火で焼いた餅を食べると、一年中病気をしないとか、芯に使ってある竹の残りで作った箸を使うと中風にならないなどといいました。


夜高祭り

 毎年の6月10日頃に行われる田祭りの日は、ヤスゴトといって農作業を休み、笹餅などを食べる習慣がありました。子どもたちや若者たちは、ヨータカという行灯を出します。ヨータカは、表と裏に「武者絵」や「豊年満作」「祝田祭」などの文字を書いた行灯で、中にろうそくの火を灯し、台に長い棒を通して担ぎます。子どもたちは、夜になると大きいヨータカを中心に小さいヨータカを捧げ持ち、ヨータカの歌を歌いながらムラの家を一軒一軒回り、それぞれの家でハナ(祝儀)をもらうのが楽しみでした。

 大型のヨータカは、青年会が中心になって制作します。散村だけでなく南砺市福野や砺波市の市街地、そして砺波市庄川町や小矢部市津沢などでは、現在も夜高祭りが盛大に行われています。近年、夜高祭りは、田祭りとしてよりも地域振興や観光的な意味合いの方に重きが置かれるようになりました。


獅子舞

 ムラの氏神様の春祭りや秋祭りには、ワカイショ(若衆)が獅子舞を奉納した後、各家を回ります。砺波地方の獅子舞の多くは、獅子頭につけた胴幕を、割り竹を使って幌のようにふくらませ、その中に何人も入る百足獅子です。子どもの獅子取りが刀や鎌、棒、なぎなたなどを持ち、獅子の相手をします。


砺波市立砺波散村地域研究所『砺波平野の散村「改訂版」』2001年より抜粋】

小杉村の村御印
小杉村の村御印

小杉村の村御印

 平野中央部の小杉町(現砺波市小杉)は草高695石の45パーセントが年貢とされて、ほかに野役とマス役がありました。