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「『五箇山から砺波へ』」の記事

5利賀村の変容

2014.11.25

T 戦前までの利賀村

第1図 現在の利賀村周辺

第1図 現在の利賀村周辺

1利賀村の地域概況と歴史

 富山県の南西部に位置し、岐阜県と県境を接する。2004年11月1日に、福野町、城端町、平村、上平村、井波町、井口村、福光町とともに市町村合併して南砺市となったため、行政区としては現存しない。一帯は大きく庄川、利賀川(庄川支流)、百瀬川(神通川支流)の3つの河川が流れ、このうち、利賀川と百瀬川の2河川に沿って小規模な集落が点在しており、椿・藤井(1957)によって、大きく草嶺地区(栗當、高沼、仙野原、利賀川沿いの草嶺、下原、栃原、北原、庄川沿いの大牧)、利賀地区(北豆谷、利賀、岩淵、上畠、坂上、阿部当)、大勘場地区(田島、中口、千束、大勘場、水無)、百瀬地区(菅沼、谷内、入谷、島地、中村、上百瀬)に分類されている。村内には中学校と小学校が各々1つあるものの、高校はない。

 利賀村は村域の96%にあたる17,059haが山林で、五箇山の最高峰である入形山(1,724m)を筆頭として、標高1,000mを越える山々は平均傾斜20度以上の急峻な勾配をもち、谷を穿って深い渓谷地形をなしている。また例年、11月から4月上旬までは雪に閉ざされ、積雪量は時に3mを越す、県内屈指の豪雪地帯でもある。

 村内の集落は、この2河川によって形成された山麓の僅かな緩斜面に点在するが、流域間は山塊に遮られ、同じ村内でありながら別流域へのアクセスは困難を極める。かつて唯一の経路であった峠道に加え、1969(昭和44)年にようやく利賀村中心部(岩淵)と百瀬川を結ぶ楢尾隧道が竣工し、アクセスが改善された。急隧道は幅3.0m、高さ3.2mの素掘りで、退避スペース以外では離合も不可能であったが、1988年には片側一車線の新楢尾トンネルが開通し、現在はこのトンネルが村としての一体性を保っている。(第1図)

 古くは平家の落人伝説に端を発し、その厳しい地勢から、近世には加賀藩の重罪人の流刑地となり、軍事機密でもある硝煙の生産地となることで一層その地理的な隔絶性は高まることになった。地図上に初めてその姿が出現するのは1825(文政8)年のことで、1819(文政2)年に加賀藩から越中・加賀・能登(加越能三州、富山・石川県)の測量を命じられた石黒伸由によって作図された『越中四郡村々組分絵図』の一部としてである(第2図)。伸由は3年半かけて領内を測量し、群単位の郡図10枚を文政7年までに完成させ、翌年には国図3枚、三州図1枚を作成した。絵図はおおよそ7万2千分の1の縮尺で描かれている。石黒は和算に優れ、測量技術にも熟達していたため、絵図の位置関係は非常に正確であった。加賀藩の領内に限られてはいたものの、同時代人の伊能忠敬が作図した海岸線の測量図とは異なり、彼の絵図は内陸の測量図であり、今日では全国的にも先駆的な測量図だったとされる。

 恐らくは戦後まで大きくは変わっていなかったであろう彼らの厳しい生活の一端は、終戦後間もなくこの地を訪れた民俗学者たちによる「耕地は部落の周邊には少なく、2〜4kmの山中に在り、その耕作と山菜の採集が主な仕事で、山村でありながら山林業は自家用を滿たすにすぎない。米、粟は自らを滿たすに足らず、トチ、栗の實で補い、足らざるは移入して、その代金は山菜(ぜむまい、なめこ)の牧入によって主に償っている。從ってぜむまいやなめこ採り、とち、栗の實拾いには一家總出で當り、山中に幾日も小屋泊りする始末、女も山地を歩くこと平地を歩くに等しい位である」「村の約9割以上が山林で、耕地はわずかに山腹に散在する程度であり、交通も最近迄殆ど開けず、食は自給自足に足らず、足らざるを補うための山や林の仕事を續けて來た所。從って男女の仕事の差は殆どなく、同程度の耕作や山仕事に從っている」(椿・藤井 1957,pp.1-3)との記述からも、容易に窺い知ることができる。

2基幹産業としての林業

 村内の96%を山林が占める地勢からも明らかな通り、林業は古くから利賀村の基幹的な産業であった。その近代的な組織化は1943年4月に利賀村森林組合が発足することによって始められ、当初は主として木炭の出荷を業務としていた。そのあと、1962年には村有林で公団造林を進め、保安林の改良事業やなだれ防止林の造成、県の造林公社からの分収造林など、治山・分収造林事業が組合の中心的な事業となった。

 市場取引の国際化に伴う大幅な木材価格の下落や、都市部への若年層流出に伴う過疎高齢化によって、林業は全国的にも衰退傾向にある。一般的には、生産流通プロセス全体をコストダウンすべく林業活動の労働集約化をすすめ効率を上げることで、林業の衰退を抑制する工夫がなされる。そんな中、利賀村森林組合はごく近年までこうした広域的な合併を退け、地域密着の組合を維持する戦略をとっていた(大成1996)。前述した県発注事業により、事業利益は県内では極めて高水準であったことが背景にあったものと思われる。

 大成によるとこのほかにも1993年に村役場で始められた利賀村青年山村協力隊事業が報告され、同年に8名もの入村者があった。しかしながら現在は、砺波、五箇山、高岡地区、氷見市の富山県西部の4森林組合との合併(2008年10月1日)により、『富山県西部森林組合』の利賀支所となって現在に至っている。

U高度成長期から現在まで
第3図 ホール棟が新築された1980年当時の利賀山房周辺

第3図 ホール棟が新築された1980年当時の利賀山房周辺

1概観

 終戦後、高度成長の時代に差し掛かると、潤沢な労働需要から都市部への人口流出が顕在化し、特に条件不利地域では挙家離村が相次いだ。県下でもこの煽りを特に強く受けたのが利賀であり、1947(昭和22)年までおよそ4,200人が居住していた村は、1975(昭和50)年には1,500人にまで人口が減少するなど、著しい過疎化に直面した。山を跨いだ平・上平村が大正期以降の電源開発に伴う国道156号線や304号線の整備によって交通事情を改善させていったのとは対照的に、厳しい地形は労働環境の近代化を阻み、若年層の流失に拍車を掛けたと考えられる(山崎1991)。

 そこで村は、1970年代以降、過疎対策条例による定住支援や道路整備、地場産業振興などを進め、人口流出の抑制や雇用対策を進めている。しかし、高度成長期以降の利賀村の沿革を概観するにあたって、特に注目に値するのは観光振興の成果であろう。

 折からバブル期がピークを迎え、第4次全国総合開発計画(1987年)において、「交流ネットワーク構想」が掲げられ、地域振興を進める上での基本的な事業として、地域間交流が位置づけられた。また農村地域でリゾート開発を進める上での基本的な事業として、地域間交流が位置づけられた。また農村地域でリゾート開発を進める総合保養地域整備法(1987年)やふるさと創生事業(1988年)、農林水産省の「農業・農村活性化農業構造改善事業」やその一環である「21世紀むらづくり塾運動(1990年)など、全国的にも都市=農村間交流の下地が育まれた時代であった(森戸2001)。本章では、こうした時代的な背景の下で、都市=農村交流のひとつの成功例となっていく合掌文化村構想と地場産品を生かしたツーリズムとに代表される観光振興を紹介する。

2舞台芸術による観光振興

 過疎化対策としてまず利賀村がとったのは、民宿を中心とする『利賀村合掌文化村』構想であった。1973年には合掌造りの民家5棟を百瀬川流域の上百瀬地区に移築し、利賀村合掌文化村が開設された。

 丁度その頃、東京都新宿区に本拠を置く舞台芸術集団『早稲田小劇場』が活動拠点の移設を検討していた。早稲田小劇場は演出家の鈴木忠志を中心に別役実、斉藤郁子、蔦森皓祐らが1966年に設立した前衛演劇集団で、1960年代以降に台頭した演劇運動の中心的存在であった。鈴木は移籍先を検討する過程で合掌文化村を知り、1976年に利賀村を訪れた。合掌造りの民家を見た鈴木は、これを劇場に改修して拠点化することを思いつき、村と交渉5年契約で貸与された古民家を劇場に改修して『利賀山房』と命名し、活動を開始した。当初、賃貸契約は5年間であった。このため、劇団側は期間満了とともにいったんの活動の終了を検討したが、利賀村はこれを慰留、創作活動の継続に必要な施設設備を行い、1980年には、初代の利賀山房を劇団の宿舎に改造し、新たに建築家の磯崎新の設計した『利賀山房』を創設、ホール棟も新たに建設した。これを受け劇団側は、利賀村での活動を一劇団の事業にとどめず、恒久的に文化事業化する方針に転換。1982年に富山県の認可を得て財産法人『国際舞台芸術研究所』を設立し、『利賀フェスティバル』と称する国際演劇祭(〜1999年)をはじめ、スズキ・トレーニング・メソッドに基づく俳優養成機関『国際演劇夏季大会』を開設(1983年〜)するなど、多くの文化交流事業に着手した。利賀村側も、劇団の活動を野外劇場・稽古場・宿舎などの増設支援で側面的に支援した。また劇団は利賀村に拠点を移した後、1984年にはその名称もSCOT(Suzuki Company Of Toga)へと変更された。1989年には文化施設の管理を新たに創設した利賀合掌文化村財団に一本化、1994年には利賀合掌文化村財団を富山県利賀芸術公園財団に発展させ、利賀合掌文化村から富山県利賀芸術公園に名称を変更、『利賀フェスティバル』を終了した1999年には演劇人の全国組織である『舞台芸術財団演劇人会議』に格上げする形で、国際舞台芸術研究所を解散するなど、事業の組織化を推し進めていった。

 彼らの活動方針は大きく3点からなっている。(1)多国籍メンバーによる国際劇団、(2)地域内に演劇活動のためのあらゆる施設を擁するレジデント方式と、独自のガバナンスによる劇場・稽古場・宿舎などの運用規定により、地域内で国際交流を簡潔させること、(3)多言語による舞台、がそれである。こうしたSCOTの活動方針は世界的に見ても先進的な試みであったことから注目され、利賀村へは各国から舞台芸術家が利賀に集まるようになり、世界の演劇関係者の間で徐々に聖地化されていくことになった。

3利賀そばを生かしたフード・ツーリズム

 利賀村を特徴づけるもうひとつの要素は、利賀そばを生かしたフード・ツーリズムであろう。この風習を地域あげての一大イベントと化したのが、『南砺利賀そば祭り』である。このイベントは、厳冬期に出稼ぎした家族や来客をもてなすために各集落で催されていた「ごんべ」と呼ばれるそば会をルーツにもつことから、現在も2月の厳冬期に行われている。にも拘わらず、例年1〜2万人を集客するイベントに成長した(2010年の入場者数は18,000人)。

 1986年6月、「そばの郷」建設のための資料収集にあたって、氏原暉男(信州大学教授)の仲介でネパールのツクチェ村に協力を依頼した。ツクチェ村は蕎麦の原産地であるとされていたためであり、これが縁となって1989年1月には、ツクチェ村の寺院で2村の友好村盟約調印が行われた。以降、利賀村ではそばを観光資源とする村おこしが本格化することになったという。

 地場産品を生かした就労支援そのものは、かつての基幹産業であり、全村の1割が関わりをもつ利賀村森林組合によって1970年代から始められていた。同組合は1971年になめこの加工場を建設し、これを皮切りに、1983年には富山市の布目食品との共同出資によって利賀食品(株)を建立、地場産品の加工販売に乗り出した。同社の主力商品「清流素麺」に代表される製麺事業はその後、販売部門の売り上げの大半を占めるまでになっていく。森林組合は、1986年には山菜加工場と倉庫を兼ねた集荷施設も建設1989年には山村林講の就労安定促進事業による地域特産物利用加工施設を併設する、1993年には食品センターを建設するなど事業拡大をはかり、地域住民の雇用創出に一定の効果を挙げることになった。(大成1996)。

 以上のように、現在の利賀村を特徴づけているのは、古くからの基幹産業である林業をベースにした内発的な地域内結合に基づくフード・ツーリズムと、首都圏から招聘した劇団関係者を核とする外発的な舞台芸術拠点の2つを車の両輪とする地域振興であり、これらの相乗効果によって、1990年代半ばには、利賀村を訪れる観光客数はそれ以前の8倍にまで増加したことが報告されている(第4図)。

V利賀村の未来

観光振興で一定の成果をあげているものの、利賀村の人口減少は現在も続いている。かつて4,000人を越えた村内の人口は、南砺市の一部となって消滅する2004(平成16)年には914人にまで低下しており、高齢者率は36%にまで増加していた(広報とが2004年9月号)。村おこしや観光振興は、村に一定の観光客を誘客し、雇用をもたらしてはいるものの人口減を完全に食い止めるまでの効果はないのが実情である。

 近年、人口減少時代が現実のものとなり、地域における空間のリサイジング、縮退論的な研究が多くの分野でなされ始めている。それは決して後ろ向きの衰退ではなく、人口減に合わせて計画的に集落規模をサイズダウンすることによって、むしろストックとしての過剰なインフラや設備投資などの負荷を軽減しつつそこに住み続けるための方策であり、富山市のコンパクトシティ政策も広義にはこうした流れの中に位置づけられる。

 都市部では、老朽化した低俗な高層集合住宅の良質の低層マンションへの「減築」や、広域行政において土地利用抑制を通じた、行政サービスの「選択と集中」などが知られている(饗庭ほか2008,高見・原田2009)。また、中山間地域においては林ら(2010,2011)が、集落単位ではなく流域や地域単位での人数を増やし、「引くべきは少し引いて確実に守る」ことを提案している。利賀村はすでに行政区としての機能を喪失しているが、利賀村があった時代の施策によって、今も村の自己同一性は一定程度保たれていると考えられる。県下でも最も過疎化が深刻なこの地域は、遠からず「村の閉じ方」がシビアに問われる局面を迎えるであろう。そうした事態を前に、いかに地域の種火を守っていくのか、その叡智が試されようとしている。

【第56回歴史地理学会大会実行委員会 砺波市立砺波散村地域研究所 巡検資料『五箇山から砺波へ』2013年より抜粋】

参考文献

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富山県利賀芸術公園財産ウェブサイト:http://www.togapk.net/(2013.5.3閲覧)

林 直樹・斉藤 晋2010.「撤退の農村計画」学芸出版社

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松本通晴1985.都市の同郷団体.社会学評論(1):35-37

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山崎嘉子1991.富山県利賀村の地域的特性と村おこし.お茶の水地理32:56.