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「『五箇山から砺波へ』」の記事

9観光振興

2014.12.2

T概説

 砺波・南砺一帯は、古くは在地の豪族利波臣志留志が東大寺の大仏造営事業に関与したことから東大寺の荘園が開墾され、歴史の表舞台にその名が現れた由緒ある土地柄である(金田1998)。世界遺産にも登録された五箇山周辺をはじめ、現在文化庁が進める「重要文化的景観」の候補にもなり得る散村景観、越中の小京都とも呼ばれる城端など、全国的にも名高い観光資源が存在している。

 しかしながら、散村景観については、政策的な意味での「観光振興」に行政が本格的に着手したのは、今から僅か3年前の2010(平成22)年度以降のことに過ぎない。長岡(2011)によれば砺波市は庁内に「観光振興戦略室」を設置し、月に一度、官・学・民が会議を重ねて、「観光振興戦略プラン」を作成した。その骨子は、

(1)チューリップフェア
(2)散居村および散居村展望台
(3)道の駅
(4)砺波市ホームページの観光情報

の4項目からなり、平成23年度から27年度の5年間で観光客数の「10%増」を達成することを目標に掲げている。この内容からも明らかな通り、砺波市の観光振興は事実上、(1)と(2)に重度に依拠していると言って良い。このうち(2)については上述したとおり解題がなされるものと思われるので、砺波市域については主として(1)を後述する。

 一方、長岡(2011)が触れていない南砺市については、管見の限り類洞的な動きはなく、一般的な地方自治体と同様に観光協会が広告的な業務を行っているに留まる。また南砺市の代表的な観光資源である五箇山や城端についても前述の通り別章にて手厚く言及がなされると思われる。南砺市の域内には他にも、舞台芸術家を招聘したことがきっかけで進められたある種の観光ガバナンス(富山県利賀芸術公園財団)や森林組合が進めている蕎麦を生かした観光振興が旧利賀村で試みられているが、これについては拙稿「利賀村の変容」をご参照いただくこととし、本稿ではそれ以外の観光振興について時系列に整理しつつ、いくつか特徴的なものを概観するにとどめたい。

U高度経済成長までの観光
第1図 加越鉄道の路線図

第1図 加越鉄道の路線図

1温泉

 世界遺産で一躍知名度を高めたその実ごく近年までは厳しい峠路の最果てに隠れた山里に過ぎず、観光地化されたのは近年になってからのことである。相倉集落が史跡に指定されたのは高度経済成長以降の1970(昭和45年)年、白川郷とともに世界遺産登録されたのは1995(平成7)年とほんの20余年前にすぎない(西山2001)。

 同様に、砺波の散村景観を保全する動きも、文化庁の選定する「重要文化的景観と前後して始まったものであり、いずれも歴史的な街並みが観光資源化された高度経済期に入って以降の、比較的新しい、観光資源であると見なしうる(鈴木2011)。これらはいずれも行政主導で観光資源化された。本章のテーマ「観光振興」、振興する主体としての行政の政策的なニュアンスを含んでいるとするなら、これらはその事例として、まさしく優等生である。

 一方、戦前までの砺波・南砺の主な観光資源のひとつは温泉であった。明治初期に発行された『日本鉱泉誌』の富山県における記述を分析し、入り込み客数をまとめた若林(2006、表1)によると、富山県内でとりあげられた温泉地では、山田温泉の35,666人、ついで小川温泉の15,146人、下茗鉱泉の14,735人が1万人を超えており、特に山田温泉の35,666人は熱海温泉の34,368人、伊香保温泉の24,883人を上回る集客力であったことが明らかにされている。砺波一帯の温泉は山田温泉に比べると小規模であるが、近世いらい富山県を代表する温泉であり、越中四名湯のひとつでもある立山温泉(同書非記載)の、明治20年代初頭の年間集客数は1,500〜2,000人前後であったことから、それでも決して小さくない集客力を持っていたと考えられる。

 若林は同書とともに、大正10年に刊行された『全国温泉鉱泉ニ関スル調査』の内容分析も行っており、同書に記述された全国の温泉入浴者数の県別平均人数を集計している。これによると富山・石川県は有馬温泉を有する長野、鹿児島、熊本に次ぐ全国9位の入浴者数を誇り、「全国有数の温泉観光地帯」であったことが明らかになっている。

2 庄川峡

 庄川峡は、山中山を水源とする庄川が飛騨高原を侵食してできた渓谷で、かつては五箇山から切り出した木材を運搬するための水運の機能を果たしていた。川下に位置する井波が彫刻の里となったのはこの地勢によるところが大きい。

 庄川が観光地となったのは昭和に入って以降のことである。大正から昭和にかけては、いわゆる遊 覧としての観光が庶民的なものになっていく時代でもあった。日本において、しばしばその抽象的な例としてあげられるものに、鉄道省の後援のもと大阪毎日新聞社と東京日日新聞社が1927年に実施した『日本新八景』がある。

 日本新八景は、山岳、渓谷、瀑布、温泉、湖沼、河川、海岸、平原の8部門それぞれについて、一般からのハガキ投票で10位までを候補地に選び、これを文化人(文人、画家、学者、政治家等)が審査する形で選定された。その選定地には実際に文人が足を運び、紀行文を新聞紙上に掲載するおまけまでついていた。折から、観光が徐々に一般市民にも身近になりつつあった時代背景もあって、この企画は大いに注目を集め、投票総数は約9,300万通(当時の総人口の1.5倍)に及んだという。

 この日本新八景の実質的な続編にあたる企画が1950(昭和25)年7月、GHQ経済科学局観光課の関与のもと、毎日新聞社が行った『日本観光地百選』である。終戦直後で貧しく、ほとんどの観光地はまだ外国人頼みの集客だった時代であった。それでも一般投票では2ヶ月で7,000万通を超える葉書が集まった。この時、日本観光地百選で河川部門の第10位となったのが庄川であった。(毎日新聞1950年11月11日)。

 庄川下流の扇状地上にはもともと、1915年に開通した福野―青島駅を結ぶ砺波鉄道があり、1922(昭和11 年までの間に、これを北陸本線の石動まで延伸して加越鉄道が開通した。加越鉄道には、旅客と材木。資材運搬の2つの役割があり、青島から先は木材運搬を主目的とする貨物専用線であった(第1図)。この専用線の終着駅にあたるのが、現在の小牧ダムである。

 庄川には1921(昭和10)年に就航した関西電力庄川船舶(現在の庄川遊覧船)があり、これが1930年に完成した小牧ダムの出現で巨大なダム湖上をゆく遊覧船となった。当初は遊覧船という性格ではなく、五箇山方面の奥庄川峡に済む人々が雪に閉ざされた冬に利用する冬季の足として就航したようである。小牧ダムは重力式コンクリートダムで、完成当時は東洋一の高さを誇り、産業遺産としての価値から、2001年に土木学会の土木学会選奨土木遺産に選ばれ、2007年には経済産業省の近代化産業遺産(近代化産業遺産群「中部電源」の庄川の水力発電産業遺産)の登録を受けている。庄川峡一帯は、小牧ダムの完成によって出現した庄川峡への観光客で賑わったという。また、(恐らくは他章で触れられるであろう)高瀬神社および瑞泉寺への参詣客や井波駅周辺への紡績、木材加工工場の進出により貨物輸送も活発化した。ダム建設時には資材運搬の需要も高まり、加越線はこの当時売り上げのピークを迎えている。

 しかしダム完成後、資材運搬の需要が失われるとともに、加越線の経営状況は急速に悪化していった。モータリゼーションの到来や沿線の過疎化が加わり、最終的には1972年9月15日をもって前線が廃止されバス輸送に転換された。今日、庄川峡は訪れる人も疎らで、乗船客のほとんどは、遊覧船でのみわたることのできる対岸の大牧温泉への湯治客である。

V高度成長期以降の観光
第2図富山県の出荷級数の推移(1996年まで)

第2図富山県の出荷級数の推移(1996年まで)

1チューリップと観光

 冒頭で触れた散村景観の保全に次いで、砺波市が観光政策上で最も力を注いでいるのは、花卉栽培で生産しているチューリップを生かした観光振興であろう。

 もともと富山は積雪が多い水田単作地帯であったため、大正時代以降、裏作として全県的に花卉の導入が始められていた。県は戦後、1948(昭和23)年に『富山県花卉球根農業協同組合』を設立し、品種改良や安定供給、販路拡大に向けた組織的な努力を行い、その結果として、ピーク時の1993年には出荷球数が6,000万級の大台に乗り、富山を全国トップクラスの球根の山地に成長させたいきさつがある(日本道路公団1997、第2図)。

 砺波市は、花卉植物の中でも特にチューリップを観光資源に位置づけ、積極的にイベント化してきた自治体である。その歴史は富山県県下に花卉球根農業協同組合が設立されたわずか4年後の1952(昭和27)年に遡ることができる。現在も4月中旬から5月上旬にかけて開催される『となみチューリップフェア』の最初のイベントがこの年、出町園芸試験場で初めて開催され、同イベントは今年で62回目を迎えた。同市は1964(昭和39)年の第13回開催時に合わせて砺波チューリップ公園を整備し、それ以降は同公園を会場にして開催するようになった。園内には開花時期を調整されたチューリップ約500種100万本以上が一斉に花を開く。最盛期の1997(平成9)年には入場者が37万人に達し、現在でも例年30万人の来場者がある。

 富山県のチューリップ生産については高橋(2005)に詳しい。少し古い資料だが、これをもとに概説を行う。高橋によれば、1996年時点での世界最大の球根生産国はオランダであり(約660億円)、世界シェアの約60%をオランダ一国が占め、貿易シェアでは90%をオランダ産の球根が占めている。これは大規模化によって1農家当たりの栽培面積を拡大し、機械化を達成できたため、試験・研究・開発〜生産〜販売・流通・輸出に至る分業体制が確立し、ビジネスとして成立したためであるという。

 日本の球根生産は世界第2位であるものの、生産額はオランダの約10分の1(約60億円)に過ぎず、これは隔離検疫制度の緩和による球根市場の自由化と、農業生産者の高齢化、生産コストの高さの3つの理由が背景にある。これに対し富山県では、1980年から1996年までの16年間で球根栽培面積30a以下層のシェアを56%から36%へ減少させ、1ha以上の層を5%から19%に高めるなど、オランダにならって大規模化や集約化を進めていった(小林2000)。

 今年のチューリップフェアの開催を伝えた2013年4月26日付の富山新聞は2011年の県内のチューリップ球根の出荷数が2,231万級と10年前と比べて半減していることも同時に報じている。同誌では減少の理由として、機械を活用して植え込みや収穫を図る安価なオランダ産に押されたことを挙げていた。高橋の示したグラフは、1993年のピークを境に富山県の出荷球数は急速に落ち込んでいることを示していたが、それ以降も減少傾向には歯止めがかかっていないものと推察される。チューリップフェアは、需要を失った花卉農業にとってのある種の再生事業といえるのかも知れない。

2 映像メディアと観光

 近年、映画やアニメ、ゲームなどの映画やアニメをきっかけに、ファンがロケ地を訪れる現象が知られるようになり、全国的にそれを観光振興に生かそうとする動きがみられるようになってきた。これがいわゆる「メディア誘発型観光(Media-induced tourism)」である(鈴木2009)。

 富山県でも、立山を舞台にした映画『劔岳 点の記』(2009年)、氷見市を舞台にした『ほしのふるまち』(2011年)、『死にゆく妻との旅路』(2011年)のロケが相次いだのを受けて、ロケ候補地の情報提供やロケーションハンティング、許可申請業務の代行、撮影の立ち合いまで、映画製作の支援を行う『富山県ロケーションオフィス(TLO)』が2011年7月に開設された。同時に、県内の各フィルムコミッションや市町村、関係団体などが連携することによってロケハンの支援体制を充実させるため、「富山県ロケーション誘致促進会議」も設立されている。その後、TOLでは映画『RAILWAYS2』のロケ誘致実績を残している。

 このような行政主導のものとは別に、当該地域にはアニメ制作会社が進めている民間レベルでの地域振興の動きがみられる。その好個の例が、2000年に南砺市城端で開業したアニメ制作会社P.A.WORKSの一連の作品群と、それをもとにした観光現象である。

 同社は当初こそグロス請け(シリーズ中の一部の回のみを下請けすること)のみを担当していたが、2008年に同名のゲームを下敷きにした『True Tears』で制作会社としての独立を果たす。同作中で城端をモデルにした「麦端町」を舞台としたことから、アニメファンによる聖地巡礼現象が起きた。その後作成したアニメ『花咲くいろは』では石川県湯桶温泉を舞台とし、この作品のもたらす効果については、畠山(2012)による調査報告もなされている。同社はこのほかにも2010年には魚津市のFLASHアニメクリエイターユニット The BERICH(ビリッチ)と協同で富山観光の三大ブランド、立山・黒部アルペンルート、不思議の海富山湾・滑川のホタルイカ、世界遺産合掌造り五箇山をアニメ化して紹介する「富山観光アニメプロジェクト」を実施したほか、2012年のホラーアニメ『Another』では再び城端・福野地区や合口ダムを登場させるなど、地域に根ざしたアニメーション作品の制作を続けている。

W抄活
第3図 富山県の出荷球数の推移(1991〜2003)

第3図 富山県の出荷球数の推移(1991〜2003)

 本章では、散村景観や五ヶ山の合掌集落など、本章の他章でもとりあげられている砺波・南砺地域の代表的な観光資源は敢えて取り上げずに該当地域の観光資源を紹介した。砺波・南砺における観光振興は、現代のツーリズムを特徴づける2つの側面を含んでいた。ひとつは従来のマス・ツーリズムに通じる観光振興であり、不特定多数の来訪に向けて予定調和の中で「仕掛ける」観光である。そして、当該地域におけるそれは、輸入品との競争に敗れていった林業にとっての加越線、苦戦を強いられる花卉栽培にとってのチューリップフェアのように、時代に翻弄される第一次産業が苦渋の中で産み落とした創意工夫の産物であった。

 その一方で、明るい兆しとして語りうる最近の傾向の中に、いわゆるオルタナティブな観光の萌芽があった。およそ不特定多数を相手にする観光ではなく、商業ベースに乗らない「選ばれた人のための」観光。「振興」の主体が存在せず、参画者も結果を充分意図せずに物語のなかに組み込まれ、現象の生成に寄与していく形の観光。当該地域に期せずしてその両方に該当する観光資源が含まれているのは、現代の観光がもつアンビバレントな特性をよく表していよう。


【第56回歴史地理学会大会実行委員会 砺波市立砺波散村地域研究所 巡検資料『五箇山から砺波へ』2013年より抜粋】




文献

金田章裕1998『古代荘園図と景観』東京大学出版会

小林哲郎2000.富山県におけるチューリップ球根生産・流通と国際化対応.農林業問題研究35(4):226-228

鈴木晃志郎2009.メディア誘発型観光の研究動向と課題.日本観光研究学会全国大会研究発表論文集24:85-88.

鈴木晃志郎2011.重要文化財的景観としての散村景観をめぐる一考察.砺波散村地域研究所研究紀要28:8-22

高橋美映子2005.国産チューリップ球根の生産プロセス−富山産球根はどのようにオランダ産球根と対抗するか−.法政大学経営学部卒業論文.

畠山仁友2012.アニメの舞台化が地域に及ぼすプロモーションとしての効果:P.A.WORKS『花咲くいろは』と湯桶温泉「ぼんぼり祭り」を事例として.広告科学57:17-32

西山徳明2001.ヘリテージ・ツーリズムと歴史的環境の保全:白川村合掌集落における自律的観光の実現と課題.国立民族学博物館調査報告21:61-80.

長岡大樹2011.観光と地域産業の振興.富山大学芸術学部紀要5:140-144.

日本道路公団1997.『高速とまちづくり主要事例集』.