住み継ぐ もっと身近に散居村

 

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「『五箇山から砺波へ』」の記事

10砺波の散村

2014.12.2

Tはじめに

図1砺波平野の散村景観

図1砺波平野の散村景観

 砺波市の散村(図1)と景観変化について説明する。散村とは、「民家が密集せず、孤立した民家(独立荘宅)が散在する村落」(「散村」『人文地理学辞典』朝倉書店)と、集落の形態から定義されるものである(図2)。日本には数多くの散村があり、「全国散居村サミット」が開催されたり、風景として観光資源となるような散居村があったりもする(散村のことを富山県砺波地域では「散居村」と呼ぶことが多い)。その中でも三大散居村といわれる地域がある。砺波平野(富山県)、出雲平野(島根県)、胆沢平野(岩手県)であり、これらは今でも散村の景観を残している。

 このように散村は他にもあるのだが、日本の高等学校で使われている「地理A」及び「地理B」の教科書をみると、砺波平野の散村ばかり取り上げられている。その理由の一つは散村が他の地域と比べて大きく広がっていること、もう一つは地理学の研究史と関連している。後者については砺波の散村成立に関する論争が大正時代から繰り広げられ、様々な研究が蓄積している。その結果、砺波平野の散村が典型例として取り上げられているのかもしれない。

U砺波の散村の特色
図2 典型的な散村

図2 典型的な散村

1砺波平野になぜ散村ができたのか?

 砺波散村の景観はなぜ成立したのだろうか11世紀ごろまで、日本の散村はどこも散村や小村などの形態が一般的だったが、畿内では12世紀ぐらいから、尾張や越前の自然堤防帯では17世紀ぐらいから集村化が進んだ。荘園開発が飽和状態になったことや水利開発や戦乱からの防御など様々な理由が契機になっている。しかし、砺波はどこにおいても飲料水と用水が得られること、戦乱の影響も少なかったことなどから集村化がすすまなかったといわれる 1)。また、砺波平野を統治した加賀藩は屋敷周辺に田を耕作することを許可する耕地利用制度をとっていたことも影響した。

2散村の屋敷林

 砺波散村に出かけると、木々に覆われた家屋をみることができる。(図3)。これは散村の家屋に特徴的な屋敷林である。屋敷林を砺波地方では「カイニョ」と呼ぶ。伝統的なカイニョはスギを主体にカシやケヤキの高木が西側から南側にかけて植えられている。また、カキやイチジクといった実がなるものなども植えられている。これらは、暴風や冬の風雪から家屋を守ったり、夏の日射をさえぎり家を涼しくしたり、フェーン現象による火災の類焼を防ぐといった自然環境から暮らしを守るために作りあげられている。また、スギは建築材としても利用されるし、枝や落ち葉は燃料としても使われていた。

 屋敷林のスギは第二次世界大戦時に軍需用に供木されたり、減少した時期もあったが、植林され、現在でも残っている。しかし、アルミサッシやカーテンが普及したり、プロパンガスが普及し、生活に屋敷林が利用されなくなった。生活に必要なくなると屋敷林の手入れは行き届かなくなった。さらに、2004年の23号台風では、スギの倒木が多発し、現在では高齢のスギを中心に伐採されるケースも少なくない。

 このように屋敷林は減少しつつあるものの、それを保全しなければならないという思いを持つ住民も少なくない。

V散村の景観の変化
図5・図6

図5・図6

 戦後の散村景観の変化には大きく分けて2つの時期があるように思う。一つは1960年代から行われた圃場整備と新規の工場の立地であり、もう一つは1980年代から進む宅地開発である。圃場整備前の散村では、平野の地形に従って用水路や道路は曲がりくねっていて、田の形状も不定形のものが多く存在した(図4)。用水路は土でできた土手でできており、道路も舗装されていなかった。戦後のころの散村の子供の暮らしをインタビュー調査したことがあるが、不定形の水田は天然のビオトープで、様々な生き物がいて、それらをとって遊んだり、夏には用水路で泳いだりできたようである。ただ、家に帰ると屋敷林はうっそうとしていて、昼間でも暗いのでお化けがでるのではないかとびくびくしたり、農業も家事も機械化されておらず、家に帰ると忙しく働かされることになるため、学校が終わっても家に帰りたくないという子供は少なくなかったようである。

1960年代から、砺波平野では大規模な圃場整備事業が行なわれた。そのころから、散村の景観が変化し始めた。まず、それまで不定形に広がっていた水田が整然とした風景になり、農業は機械化されていった(図2)。さらに圃場整備により直線化し拡幅した道路と安価な地価のため、工場も進出した(図5)。機械化により省力化された。その余剰労働力は進出してきた工場や近隣の富山市や高岡市での労働に振り向けられた。砺波散村は水田耕作を行うための集落形態であるのだが、その形態に実質的な意味が伴わなくなってきた。

 さらに1980年代から跡継ぎ不足により、水田を手放す農家も増加した。それらの土地を利用して小規模な住宅団地が開発された。特に砺波市の北側にある高岡市へのアクセスがよい地域で開発が盛んに行われた。その結果、散村の屋敷林のある集落の中に、突然、住宅団地が現れるようになった(図6)。

W散村景観の保全と創造

 工場の進出や住宅団地の造成は、砺波平野の人口維持や就労場所の確保に貢献したが、散村景観を変容させてしまう。そこで、砺波の散村景観を保全できるよう、砺波市は景観計画を変容させてしまう。そこで、砺波の散村景観を保全できるよう、砺波市は景観計画を検討している。散村景観の広がる地域は広く、散村が残るように規制をして景観を保全しようとすると、広域にわたり開発が強く抑制され、砺波市の活力が失われる可能性がある。そこで、今残る散村景観を保全したいとの考えで住民が合意した地域で景観保全を行おうと考えている。しかしながら、このうような緩やかな規制で散村景観が保全できるのか、市役所も住民も不安を持っている。

 また、あらたな景観創造にも取り組まれている。かつて水田の裏作とされていたチューリップの球根生産は、現在では砺波平野を代表する農業生産物の一つになり、春先には散村のあちこちでチューリップが咲き乱れる(図7)。その風景は北陸の曇天が続く陰鬱とした冬が終わったことを人々に気づかせてくれる。そのような景観を認識しやすくするために春にはチューリップフェスティバルが開かれる。

 高校の地理の教科書に当たり前のように掲載される散村の地形図であるが、そこにある景観が時代の変化にともない少しずつ変化し、現在では、その景観を保全する意識を持たなければ保全されたに状態にまでなってしまった。伝統的な散村の風景を堪能したいという方は、早めに砺波平野を訪れていただくことをおすすめしたい。

1)金田章裕(1986):砺波散村の展開とその要因。砺波散村地域研究所紀要3

【第56回歴史地理学会大会実行委員会 砺波市立砺波散村地域研究所 巡検資料『五箇山から砺波へ』2013年より抜粋】