平成19年6月22日・市指定
個人所有・砺波郷土資料館蔵(砺波市花園町)
河邊次郎左衛門文書は、近世初頭の文禄期から明治初年にいたる総数202点から成り、特に初期のものは庄川扇状地の扇央部及び野尻野の開発過程を知る上で、非常に貴重な文書です。
河邊氏は、安土桃山時代(16世紀末)に砺波の地に定着した武士で、帰農して苗加(のうか)村(現砺波市)と苗嶋(くさじま)村(現南砺市)を開拓しました。
初代次郎左衛門は、文禄3年(1594年)、加賀藩で最も早い時期に肝煎(きもいり)(村役人のこと)に任じられ、さらに3代次郎左衛門以降は十村(とむら)(肝煎の上位にある役人)に選任され、幕末まで累代十村役を務めました。
古いものでは、文禄3年に加賀藩主前田利長が初代次郎左衛門に2通の文書を送っています。一通は肝煎任命状で、扶持10俵を与えるというものです。もう一通は「古納加村」の野開き申付状です。2通とも肝煎任命状・新開文書では、加賀藩の越中における文書では最古のものです。
苗加村は庄川の一分流野尻川の氾濫原にあり、近世の初頭に急速に開発が進められた地域に位置します。元和〜寛永期に、藩主や郡奉行が初代の次郎左衛門らに宛てた4通の新開申付状は、この時期の庄川扇状地扇央部の開拓の具体的な姿を示す貴重な文書です。3代次郎左衛門は、野尻野を開き、元禄元年(1688年)に苗嶋村を村立てして、苗嶋村に移りました。4代久左衛門は、畑作にも力を注ぎ、朝鮮人参(元文2年から)や、琉球芋(享保5年から)鈴瓜・赤芋を栽培し、藩へ献上したことに対し、藩から褒美として八講布を拝領した目録などが残されています。
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