出町に「地蔵町」(じぞうまち)という町名があったのをご存知でしょうか?
この地名がとても気になったので調べてみました。なぜ気になったのかというと、昭和初期の刊行物にその町名が登場するからです。昔、夜高に大行燈も出していたほどの町内なのに、現在は全くその痕跡がない。これは大きな謎です。
さて、地蔵町は一体今のどのあたりなのでしょうか?
もっとも古い天保年間の出町絵図を見ると、現在の西町と末広町の境(島倉屋菓子舗の近く)から広上町のけやき公園あたりまでの通りが地蔵町となっています。
ではなぜ地蔵町というのか。けやき公園の近くにある六体地蔵がその由来です。六体地蔵は境目を守護する存在で、あの世とこの世の境などに存在します。そうです、けやき公園や洗心寺周辺は出町の墓地だったのです。
つまり地蔵町は、現在の末広町の西町側の一部のエリアだったといえます。これでちょっとすっきりしましたが、墓地だったとは...。今はすっかり住宅街ですが、かつての姿は町名とともに消えてしまったのですね。
地蔵町という町名はおそらく1797年頃から1951年の間の154年間使われた町名です。知らない人が多いのも無理はありませんが、街並み自体は今も続いているので、“幻の町名”と言っていいかと思います。
何かと便利な『砺波市の地名』(1993)には、地蔵町の説明が詳しく載っていますので添付しておきます。興味ある方はぜひご覧ください。
・ジゾウマチ(地蔵町)
現在の末広町は昭和26年までは地蔵町と言っていた。現在三叉路より広場一帯は共同墓地であり、この三叉路に六体地蔵さ んがあり、赤松と黒松の大きい木が2本あった。この六体地蔵の台座には「願主、杉木新町若連中、寛政9年(1797)4月」と刻まれているので、当時より 地蔵さんにあやかり地蔵町と名付けられたものと推測される。この地蔵堂近くに洗心庵が建てられ、初代庵主には、新町金田家より出家された教本尼、二代は教 忍尼、三代は現在の禅淨尼。昭和2年現在地に移転、昭和37年に洗心寺と改称された。明治21年に共同墓地の真中を津沢往来が通るようになり、墓地は現在 地に移された。その跡地に出町裁判所が建てられ、周りは石垣でその上に土を盛り、触ると大変痛い木が植えてあった。大正9年裁判所が上町に移転してから出 町図書館となった。昭和22年図書館の後に一部改装され労働基準監督署となり、昭和49年現在地に移転し今は子供の遊び場(公園)になっている。この広場 内にある著名なものとして、大欅(500年以上)、水道記念碑(昭和3年)、消防記念碑がある。末広町の地番には、中神、深江、鷹栖出、出町の飛地があ り、ほとんど小川、小路で境界が出来ている。
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