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庄川の用水と合口ダム 2013.3.28
庄川の用水

水資料館 鳥足

江戸時代のはじめ、加賀藩は丘陵地や廃川跡など荒地を開墾するため、上流部から長い用水路を掘削、引水、または分流の締め切り堤防に水門を設け、用水路を引くことを積極的にすすめました。また、村々でも競って開墾地を増やしました。
庄川の左岸には、山見八ケ用水・新用水・鷹栖口用水・若林口用水・新又口用水・舟戸口用水・千保柳瀬口用水・二万石用水の取入口があり、鎌倉時代に開設したと伝えられている用水もあり、野尻川・中村川・千保川(昔の庄川)などの自然流域の開田が部分的に進むにつれ、用水路の改修が進み、次々とできていったものを利用したと考えられています。
庄川の右岸には三合新・芹谷野・針山口・六ケ用水があり、庄川と和田川にはさまれた芹谷野の高台を開田するため工事をして作られたものです。
昔の取入堰は、川の流れが用水取入口に向かうよう蛇籠を並べ、鳥足を連ねて川倉を組み聖牛を設けて取入堰を作りました。しかし、洪水になれば、丸太と竹籠で作った原始的な取入堰はよく流出しました。

水資料館 鳥足
明治30年頃の用水取入口の地図だよ

庄川合口堰堤ができる

 小牧ダム建設で昔からあった堰を合口にするという考えが避けて通れない課題となりました。
 建設費用の分担、これまでの慣行水利権(上流用水の特権)などの難問が話し合われ、1935年(昭和10)年に工事が始まり1939年(昭和14)に完成しました。
 鉄筋コンクリート造りのダム湖を持つ取入堰となり、それぞれ個別に取入堰を持っていた農業用水を共同堰にしました。共同堰の右岸・左岸上流に農業用水取入口と発電用水取入口、左岸下流に魚道を設けました。
今まで洪水では鳥足や蛇籠が流され、補修・改修に追われたり、日照りの際の水の確保に悩まされることがなくなりました。農業用水の安定確保ができるようになり、人々の暮らしを変えたのです。

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