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庄川の軌道を歩く 後編 2013.12.26
当時の東洋一の小牧ダムへの観光客を運んでいました。

小牧ダムプラットフォーム

幾多の困難を乗り越えて完成した小牧ダムは、昭和5年9月に湛水を開始し、11月には発電所も運転を開始しました。ここで専用鉄道本来の使命は終了でしたが、同線は木材流送振替施設の一部と位置付けられている以上、その撤去は不可能でした。ただ、木材輸送の最盛期である冬季のみの運行のために、線路施設や車両の維持を続けるのは難しいことでした。

しかし、当時「東洋一」とうたわれた小牧ダムによって出現した湖水は、「庄川峡」という景勝地を出現させ、新たな観光地となりつつありました。昭和6年4月に、庄川水電は、庄川運輸事務所を設置し、ダム建設によって出現した新名所「庄川峡」への観光客輸送と、ダム上流の大牧温泉、祖山方面への交通運輸を目的とした、青島町―小牧間に「(貨車を)展望式に改造した」客車列車の運行(非公式営業)と、小牧ダム―大牧温泉―祖山間の客船運航を開始しました。青島町から小牧までの鉄道区間には、途中乗降客の便を図るため、発電所付近に旅客用の停留場が設置され、ダムへの立ち入りも2銭の入場料をとりました。また、加越能鉄道と協力して宣伝パンフレットを発行するなど積極的な観光誘致に努めたため、休日は観光客の乗車で大いににぎわいました。しかし、休日の利用客のみでは鉄道営業の採算がとれず、さらに、専用線存続の主な目的であった木材運搬も、流木争議中の乱伐や電力会社が岐阜県側に建設した「百万円道路」によって、運搬量も減少したため、鉄道の存続の意義は次第に失われていきました。
昭和13年には、専用鉄道の旅客輸送は廃止され、バス運行に切り替えられました。昭和14年10月には、専用鉄道廃止届を提出し、青島町駅から二万七千石用水取入口までの線路を撤去することとなりました。
その後、小牧までの鉄道は「流木問題」との関係上、上流の運材施設と共にしばらく残されていましたが、活用されることはほとんどありませんでした。庄川水電自体も昭和16年に国策会社「日本発送電」に統合され、その歴史に終止符を打ちました。昭和18年8月には、小牧祖山両発電所のコンベアー設備を県内港湾の石炭荷揚げに転用する計画を立て譲り受けすべての施設は撤去されました。
第2次世界大戦後、社会の安定と共に庄川峡は再び観光地として注目されるようになり、昭和25年に全国観光地の人気投票でも上位に入るほどでした。昭和26年12月には青島町小牧間の鉄道復活が計画され、加越能鉄道が同区間4.7キロの電気鉄道敷設免許を取得しましたが、道路の整備やモータリーゼーションの振興により実現されず、昭和47年9月に加越能鉄道も廃止され、庄川町から鉄道が消えることとなりました。




参考文献
『鉄道の記憶』  平成18年 草 卓人 桂書房 
『富山廃線紀行』 平成20年 草 卓人 桂書房
『庄川町史 下巻』  昭和50年 庄川町





 


 



 


 



 

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