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A−1酒造りの歴史 2014.6.24
(1)近世以前の酒造り

日本における酒造りは古く、既に縄文時代に木の実や雑穀から酒が造られていたことが知られている。文献でも3世紀末に書かれた中国の『魏志倭人伝』の中に「人性嗜酒」との言葉が見える。『古事記』や『日本書紀』の中にも神に酒を供えていたことが記されている。今日でもわざわざ神に供するために祭礼のたびに神社で氏子たちが酒造りを行っている所もある。

 また10世紀の朝廷の制度を記した『延喜式』によると、「酒造司(さけのつかさ)」という役所があり、上納された各地の米で、酒部という専門の家柄の人々が醸造を担当していたことが知られる。

 鎌倉時代には政府や寺社の権力者が特定の専業者を認定して酒造りの特権と保護を与え、その代償として酒による現物または金銭による税(酒役)をとり上げるような制度に変わってきた。大荘園をもつ寺院では、神仏習合時代、神酒造りから始まった僧坊酒が発達し、幕府の許可を受けて造る「酒屋の酒」も登場してくる。

 室町時代の酒造りについては『看聞御記』や『御酒之日記』『多聞院日記』などの文献に詳しい。

 そして戦国時代を経て江戸時代となる。この頃までには畿内だけでなく全国各地で酒の新興産地が誕生している。「西宮の旨酒」「加賀の菊酒」「博多の練貫酒」などが有名である。

(2)江戸時代の酒造業

1.江戸幕府の酒造政策





 江戸時代の酒造業は、幕府によって厳しい統制下におかれていた。酒を造ることは、当時の経済の根幹であった米を主原料としたためで、幕府や藩の財政に直接大きな影響を及ぼす米価を調節するためにどうしても規制が必要だったのである。

 まず第一点目は、従来彼岸酒、冬酒、間酒、春酒などといい、年に何度も行われていた新酒の仕込みを禁じ、冬の寒い時期に酒造りを集中させる「寒造り」に限定したことである。これは寒い冬に仕込むほうが醪の品質が管理しやすく、空気中から侵入する雑菌の繁殖を抑えやすいからである。

 このような寒造りは、良質の酒を造りだしただけでなく、冬の農閑期の農民が酒屋へ出稼ぎすることを可能にした。この頃から杜氏を中心とする蔵人組織ができあがったのである。

 第二点目は酒造株の制度である。これは、各酒造者の造石高を決め、その酒造者の住所、氏名を明記して鑑札を交付し、その所有者だけに札に記された株高の酒造りを認めたものである。しかし、株高と実際の造石高との間に差が生じ、何度も「株改め」が実施されている。

 基本的には新株を立てることは禁じられたが、この株を売買することは許されていた。
(安ヵ川恵子)


【砺波郷土資料館『砺波野が育んだ地酒』1995年より抜粋】

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