わたしたちの先祖が歴史の舞台とした日本平野は、三方が山地にかこまれている。東の庄東山地、南の高清水(たかしょうず)山地、西の医王山がそれで、小矢部川下流の西側は宝達(ほうだつ)山地へと連なる。
砺波平野は、大部分が庄川によってつくられた、勾配(こうばい)のゆるやかな扇状地で、そのあちらこちらに30センチから2メートルまで微高地が島のようにつらなり、そこに集落ができている。その間をぬっていくすじかの古い庄川の文流のあとが、一面の水田地帯となって広がっているのが望見される。
岐阜県烏帽子(えぼし)岳に源を発し、合口ダムあたりから平野部に流れ出る庄川は、奈良時代には雄神(おがみ)川とよばれ、主流は砺波の扇状地平野を北西に流れ、今の福野町上川崎あたりで小矢部川と合流していた。この二川と東部山地の谷内(やち)川、和田川が古代の砺波の人々に母なる大地を創り出した。中でも雄神川といわれた庄川は、沖積世から近世に至るまでの長い期間にいくども川筋を移動しながら、川流が運んだ土砂によって微高地をつくり、そこに砺波の村々が開かれてきたのである。
市の気候を降水量の変化からみると、年間総降水量2560ミリのほぼ40パーセントが12月から3月までの冬季間に降る。これが庄川上流の積雪となり、それが早春の3、4月、一斉に解け始め、奔流となって庄川を流れ下る。昭和の初めからこの水系に次々と建設されたダムは、この雪解け水をためて水力発電をすることをおもな目的としたものである。
これを千余年の砺波平野の集落形成の歴史からみると、古い集落を押し流し、堆積した土砂の上に再び新しい村々をつくらせたのは、おそらくこの雪解け時と6、7月ごろからの梅雨期や台風期に起こった庄川の大洪水であったにちがいない。
それが約半世紀前に始まった庄川のダム建設によって土砂の蓄積が止まり、河床低下という問題を生み出した。庄川の河床測定図をみると、ダムができてからの約50年間に、下流では平均3メートル近くも河床が低くなっている。それはとくに合てからの約50年間に、下流では平均3メートル近くも河床が低くなっている。それはとくに合口ダムの付近でいちじるしい。
それとは別に、庄川の堤防は、国の力で改修され、藩政のころ、霞堤(かすみてい)として2、3本並行していた堤防は1本化され、その高さも2メートル程度嵩上げ(かさあげ)されたので、増水時といえども昔のように水流の音が直接耳に入ることはなくなった。
しかし、河床が低くなったため、堤防の下から平野の扇状地下の砂利層に流れこむ地下水の量に影響が出ていると考えられている。往時は庄川の水流の一部が、砺波扇状地のちかに入って伏流水となり、下流の湧水帯や自噴井地帯(ともに高岡市や福岡町あたり)の水量を豊かにし、その範囲も広かった。古代に稲作技術が伝わってきたとき、このような低湿で豊かな湧き水地帯が、まず利用されたであろう。その重要性に注目したいところである。
【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】
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