万葉の歌人、大伴宿祢(すくね)家持は746年(天平18)28歳の青年国守(国司の長官)として越中国府に赴任した。それからの5か年間、国守として越中国を巡回するうちにこの砺波地方で詠んだ歌を万葉集に載せている。
まず、新任の家持の館での宴に同席した僧玄勝が大原高安真人の詠んだ一首を紹介したものがあげられている。
7世紀後半に利波臣氏(となみのおみうじ)と名のった豪族が砺波地方、小矢部川の中流域にあったことは先に述べている。8世紀半ば、大伴家持が国守として着任した翌年、利波臣志留志の記事が続日本紀(しょくにほんぎ)に現われる。
河内国の人、大初位下、河俣連(むらじ)人麻呂が銭1千貫、また越中国の人、無位利波臣志留志が米3千碩(せき)を東大寺に寄進し、ともに外従五位下(げじゆごいげ)の位を与えられた。(続日本紀 天平19年9月2日)
このころ東大寺の大仏造営事業は財政的に行きづまっていた。大伴氏は造営の責任者である橘諸兄(たちばなのもろえ)と深いつながりがあった。その大伴氏は河内国(大阪府)と越中国で国守を出していたので、前記の2人は大伴氏を通じて橘政権を支援するため寄進したものといわれる。ときの諸兄の政敵は藤原仲麻呂であった。
それから20年後、中央政界で道鏡が政権を握ったころ、志留志は東大寺に百町歩の墾田(井山村120町のうちと考えられる。)を寄進し、従五位上の位を授けられて、越中員外介(いんがいのすけ)となり、越中国の東大寺の田地を管理する専任国司となった。当時、孝謙女帝のほかに後援する勢力のなかった道鏡を助けて、志留志は官界入りを果たし、道鏡失脚後の779年(宝亀10)伊賀(三重県)国守に任官している。このように彼には巧みな政治行動力があったと考えられている。ところが、利波臣を祖先にもつ石黒氏の系図には利波臣虫足(むしたり)や真公(まきみ)の名はあるが志留志の名は見られない。当時、利波臣氏は地方行政に深く関係していたにもかかわらず、志留志の記事がないところから、志留志の一族は利波氏の中でも本宗家ではなく、傍系の家がらに属していたのではないかといわれている。
他方、この系図に見える利波氏一族は、郡司、大領、小領などの地方郡政上の役人となって平安時代に続いているので、やはり志留志はこの中に入らない別系の利波臣氏ということになる。
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