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U−A中世の砺波『武家社会の胎動と砺波』1・2 2014.9.4
1貴族の世から武家の世へ「武士の登場と砺波」

上・倶利伽羅古戦場の遠望 下・牛飯岡碑

 平安時代も中期を過ぎると国司制度が腐敗し、各国の政治、治安が乱れる。それにともなって、暴力により他人の領地や権利を侵害するものが現れる。この中で、領主、荘官(しょうかん)は自分の土地を命を懸けて守るため、自ら武器を手に取る。武士は、こうして生まれた。さらにこれが、天皇の血を引く源氏と平氏の棟梁(とうりょう)のもとに結集し二大武士団をなした。この二派のうち、勢力を持ったのが、平氏である。

 この時期、越中でも平教盛(たいらののりもり)・盛俊(もりとし)・兼家(なりいえ)ら平氏一族が、相ついで国守となった。しかし、1181年(養和元)に木曾義仲(きそよしなか)が平氏の方の城資永(じょうのすけなが)を破るに至り、越中武士団の石黒党・宮崎党は義仲を援助するようになった。ついで1183年(寿永2)5月、越中・加賀境で倶利伽羅峠(くりからとうげ)の合戦が起こる。この時、西軍率いる10万の兵に5万の義仲軍が大勝したが、この地の地理にうとい義仲を先導し勝利に導いたのが、石黒党・宮崎党などの越中武士団であった。この内、石黒党は砺波郡南部の石黒荘(福光町)を本拠とし、石黒太郎光弘(いしくろたろうみつひろ)を惣領とする武士団で、古代豪族利波氏の子孫といわれる。「源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)」によれば、石黒光弘は平家軍と安宅の渡(あたかのわたし)で戦った折に負傷し、いったんは弟の福光五郎(ふくみつごろう)とともに地元に引き上げたが、10日ほど後には義仲軍を案内し、倶利伽羅峠で平家軍を破ったという。このような越中武士の援助のもと、義仲は砺波の般若野でまず先軍の平盛俊(たいらのもりとし)を破る。つづいて砺波山(倶利伽羅山)で“火牛(かぎゅう)の計(けい)”と称される夜襲(やしゅう)をかけて大勝し、京へ上ったのである。こうしたわけで、砺波市内における義仲に関する伝承も多い。たとえば、義仲の大軍が午飯(ひるめし)を食べた場所と言われる午飯岡(ひるいがおか)(小島)や、義仲が必勝祈願をしたという西宮森の宮は良く知られるところである。

1貴族の世から武家の世へ「武家社会の確立」

 平氏に代わって政権を握った源頼朝は、地方支配のために守護と地頭を各地に置いた。当時、越中には石黒党・宮崎党などの強大な武士団が勢力を持っていたが、頼朝はこれを用いず、源氏の一族である比企朝宗(ひきともむね)を最初に守護に任じた。ついで名越朝時(なごやともとき)を守護とし、放生津(ほうじょうづ)(新湊市)の守護所で政務を取らせたという。しかし、越中武士団は、これらの守護の支配にすんなりと服さなかった様子である。

 1221年(承久3)に、幕府と朝廷の対立の表面化と後鳥羽上皇の政権奪回の企て(くわだて)から承久の乱(じょうきゅうのらん)が起こる、越中でも名越朝時の軍勢となった宮崎・石黒・野尻。河上などの勢力が砺波野で戦い、上皇方の勢力を降伏させている。ここに及んで、朝時は越中において強大な支配力を持った。

 さて、鎌倉時代中頃、中国の統一王朝元(げん)が日本に服属を求めた。時の執権北条時宗(しっけんほうじょうときむね)がこれを拒んだことから、元寇(げんこう)が発生した。日本は幕府を中心に国を挙げて元と戦ったが、この時には越中武士団も敦賀の津(福井県)を守った。また油田条の領主平賀氏も、御家人として西国へ派遣されている。こうして文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の2度の戦を乗り切りはしたものの、多大な出費と御家人の疲弊は幕府を崩壊に導いた。そして1333年(元弘3)、後醍醐天皇の挙兵により鎌倉幕府はついに滅んだ。越中守護名越時有(ときあり)も、この政変の中、放生津で滅ぼされてしまう。

 しかし、後醍醐の新政権も尊氏の離反のため短命に終わり、南北朝の動乱の時代が到来した。この動乱の中、越中では尊氏がその支配を強化するために、一族の桃井直常(もものいただつね)を守護に任じた。直常は、1350年(観応元)観応の擾乱(かんのうのじょうらん)において尊氏とその弟の直義(ただよし)が対立すると、直義方につく。結局、擾乱は尊氏による直義の毒殺により終わるが、直常はこの後も宮方(みやかた)に投じ最後まで尊氏と戦った。これに対し尊氏の子義詮(よしあきら)は、斯波義将(しばよしまさ)を守護として直常を討たせ、直常の本拠地である砺波郡の野尻・庄などの城をおとし入れた。一方、直常の側も新川郡の松倉城(まつくらじょう)を中心に徹底抗戦したが、その威力は次第に弱まり、砺波郡の松根・一乗寺・井口・野尻・千代ヶ様(ちよがためし)の諸城でも敗れ、ついに松倉城にたてこもる。これ以降、直常の動きも、越中宮方の動きも無くなっていったという。この動乱も、義満のときの南北朝合一により解消する。こうして室町幕府の支配が確立した後、越中には畠山氏が守護として任命された。彼は越中支配を行うため、自分の家臣を守護代として配置した。砺波の遊佐(ゆさ)氏、新川の椎名氏、射水・婦負の神保氏がそれであった。

2増山城をめぐって「増山城の様相」

 和田川は、芹谷野(せりだんの)の水田地帯をゆっくり大きく蛇行しつつ流れる。これを塞き止めて造られた増山湖の向こうに、砺波平野を見おろすように立っているのが、増山城である。この城をめぐって、多くの武将が何度も血生臭い争いを試みた。しかし今この地は、僅かにその面影を止めるのみである。

 城跡の様子に、目を転じてみよう。一の丸は標高110mで西は和田川の浸食谷(しんしょくこく)に面し、80mの崖でさえぎられている。加えて、東には山並みが続くというのだから、「天険の要害(てんけんのようがい)」という表現がまさにピッタリと来る。正門へ通じる「七曲り坂(ななまがりざか)」はうっそうとした森の中を縫うように続く。これを一の丸、二の丸と登っていくと、「神水鉢(しんすいばち)」という、自然石に穴を穿った石鉢に出くわす。また、二の丸、三の丸間の「馬洗池(うまあらいいけ)」や全山をおおう土塁や空堀の遺構なども興味深い。

 この城跡の西側、和田川の大きく蛇行している辺りに、増山城下が広がっていた。ここは「寺土居(てらどい)」と呼ばれ、かつて曹洞宗・真言宗系の諸寺が立ち並んでいたという。今でも寺跡に、「長念寺塚(ちょうねんじづか)」「妙蓮寺塚(みょうれんじづか)」が残っている。この寺土居の一角に、土塁の遺構がある。長さ80m、最大幅10m、高さ2mに及ぶ。現在ダム底に水没した地域に「下町」と呼ばれた場所があることから、これは増山の城下町を守るために造られたものと考えられる。

2増山城をめぐって「中世の争乱と増山城」

 南北朝期、京都における尊氏と後醍醐天皇の政権抗争は、各地へ大きな影響を及ぼした。越中でも桃井直常が南朝方の権威に頼って足利方と対立したので、北朝側は斯波氏の家臣二宮円阿を派遣し、和田城(南北朝期の増山城の呼称)を中心に争った。円阿は庄城(庄川町雄神)・野尻城(福野町)を攻め落とし、一時、和田城をも支配している。この後、南朝方の勢力の後退にともない桃井氏も没落し、これに代わって室町幕府より畠山氏が守護に任命された。この畠山氏のもと越中の現地支配を行なったのが、神保氏であった。神保氏は応仁の乱の時に細川方につき、越中戦国大名として勢力をなしたが、神保慶宗の代になると、ついに守護畠山氏の指示に従わなくなる。これに対し畠山氏は、遊佐慶親(よしちか)や一向宗徒の協力、加えて越後の守護代長尾能景(ながおよしかげ)の勢力を鎮圧のために導入する。1506年(永正3)能景は兵3万を率いてこの地に攻め込んだが、慶宗は増山城に籠城(ろうじょう)してこれに対抗し、逆に般若野(一説には、小矢部市蓮沼ともいう)で能景をを敗死させた。さらに30年後、能景の子為景(ためかげ)も、同様に越中攻めに失敗している。

 さて、戦国時代の群雄割拠の中で、一大勢力をなしたのが、越後の上杉謙信である。謙信は為景の子であり、祖父の敵討ち(かたきうち)と越中攻略の野望を持って、13,000の兵を率い増山城を攻めた。これに対し神保氏は、一向一揆と結んで徹底抗戦したため、容易にこれを滅ぼし得なかった。しかしその後、一気勢力が衰退した16世紀後半謙信は20,000の兵を率いて再度増山城を攻め、ついにこれを落城させた。こうして、越中は謙信の支配下に入った。

 天正年間になると織田信長の臣佐々成政(さっさなりまさ)が越中に封ぜられる。成政は、政権が信長から秀吉に交代した後、反秀吉的立場をとったため孤立化してしまう。これを挽回するため成政は、徳川・織田と結ぼうとして立山の”ザラ峠越え”を断行したが失敗し、結局、秀吉に降伏する。この結果、砺波郡は前田家の支配に入り、増山城もその家臣中川光重が城代となった。

 このように数奇な運命をたどった増山城も、元和の一国一城令により廃城となり、その生命を終えて現在に至っている。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

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