平安時代も中期を過ぎると国司制度が腐敗し、各国の政治、治安が乱れる。それにともなって、暴力により他人の領地や権利を侵害するものが現れる。この中で、領主、荘官(しょうかん)は自分の土地を命を懸けて守るため、自ら武器を手に取る。武士は、こうして生まれた。さらにこれが、天皇の血を引く源氏と平氏の棟梁(とうりょう)のもとに結集し二大武士団をなした。この二派のうち、勢力を持ったのが、平氏である。
この時期、越中でも平教盛(たいらののりもり)・盛俊(もりとし)・兼家(なりいえ)ら平氏一族が、相ついで国守となった。しかし、1181年(養和元)に木曾義仲(きそよしなか)が平氏の方の城資永(じょうのすけなが)を破るに至り、越中武士団の石黒党・宮崎党は義仲を援助するようになった。ついで1183年(寿永2)5月、越中・加賀境で倶利伽羅峠(くりからとうげ)の合戦が起こる。この時、西軍率いる10万の兵に5万の義仲軍が大勝したが、この地の地理にうとい義仲を先導し勝利に導いたのが、石黒党・宮崎党などの越中武士団であった。この内、石黒党は砺波郡南部の石黒荘(福光町)を本拠とし、石黒太郎光弘(いしくろたろうみつひろ)を惣領とする武士団で、古代豪族利波氏の子孫といわれる。「源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)」によれば、石黒光弘は平家軍と安宅の渡(あたかのわたし)で戦った折に負傷し、いったんは弟の福光五郎(ふくみつごろう)とともに地元に引き上げたが、10日ほど後には義仲軍を案内し、倶利伽羅峠で平家軍を破ったという。このような越中武士の援助のもと、義仲は砺波の般若野でまず先軍の平盛俊(たいらのもりとし)を破る。つづいて砺波山(倶利伽羅山)で“火牛(かぎゅう)の計(けい)”と称される夜襲(やしゅう)をかけて大勝し、京へ上ったのである。こうしたわけで、砺波市内における義仲に関する伝承も多い。たとえば、義仲の大軍が午飯(ひるめし)を食べた場所と言われる午飯岡(ひるいがおか)(小島)や、義仲が必勝祈願をしたという西宮森の宮は良く知られるところである。
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