地方の有力武士、いわゆる土豪の生活の形跡を、多少とも留めるものとしての「土居」(館ともいわれる)の跡が、砺波に2・3残っている。東般若にある「館(たち)の土居(どい)」と鷹栖になる「庄官屋敷(しょうかんやしき)」「小倉(おぐら)の土居」がこれである。
土居とは武士の屋敷であり、構造からいうと(図1)のように周囲に掘をめぐらし、さらに板塀や土塁で屋敷を囲み、敵の攻撃に対する防衛設備を何重にもとった砦(とりで)であるといえる。これを平面図に直したのが(図2)である。家屋のある内郭(ないかく)が土塁と二重の堀で囲まれ、土塁の高さが、1・5〜2m、堀の幅は2〜3m程度が一般的である。これに対し、砺波の土居の概形を表すのが(図3)である。これらは区画整理前の地積図によるが、現在は館の土居・小倉の土居が、多少その跡を残すのみである。しかし、これらの土居には、ここを中心に活躍した土豪たちにまつわる伝承が伝わっている。
まず、「館の土居」に関してであるが、この土居のやや南方にある浄土真宗の照円寺(しょうえんんじ)の縁起に、その伝承が残っている。すなわち、この寺の開基(かいき)は般若郷の地頭多智民部大輔政道(たちみんぶたいふまさみち)であり、今に残る多智屋敷(たちやしき)(館の土居)は、この居所跡という。多智民部は生来殺生好きで、非道を好む乱暴者であったが、神保氏に所領を奪われ 没落した。それがきっかけで、蓮如上人の北国下向の際に仏門に入り、道空(どうくう)と称した。吉崎御坊が越前の平泉寺の攻撃を受けた折には、非常に活躍したと伝える。その後、道空は当地に般若堂(はんにゃどう)という小堂を建てて、百姓教化にあたったという。
さて次に鷹栖の「荘官屋敷」であるが、これは小字の上島・無佐・黒河にまたがる部分にあったもので、戦国時代の土豪小倉六右衛門の館の跡と言われる。伝承では、この六右衛門の支配地を「中の名(みょう)」または「中の明」と称したという。この付近には現在でも「中明」という姓があること、また、以前はこの一帯を“六キョモン作り”と呼んだことも、そのなごりといえよう。
最後に「小倉の土居」についてであるが、これは鷹栖の上島境(かみじまさかい)に存在する。この土居についても、先の荘官屋敷同様に小倉氏が関係するが、次のような伝承がある。
中世の越中では、一向宗徒(いっこうしゅうと)の勢力が極めて強かった。砺波郡では、この宗徒達が神保氏の勢力と対立し、時には協力しつつ一派をなしていた。この中、小倉六右衛門は、一向宗の水島の勝満寺(しょうまんじ)の有力な門徒(もんと)として活動した。1566年(永禄9)に、木船城主石黒左近(きふねじょうしゅいしくろさこん)は、越後勢の援助のもと、この勝満寺に攻撃を加えた。この時に門徒頭であった六右衛門の荘官屋敷も焼討ちにあったが、嫡子1人は何とか脱出し家を再興した。天正の頃になり、この屋敷から弟2人が分かれ出たが、その1人の孫左衛門が鷹栖の不動島をひらいて、村の草分けとなった。現在の小倉の土居が、そのなごりという。この土居については、“毎年、正月の朝、金の鶏がこの屋敷で夜明けの時を告げた”という金鶏伝説も残っている。
【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】
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