和田川を越え頼成(らんじょう)の森へ向う、その入口にあたる所が芹谷(せりだん)である。大昔、この地の人々が、この谷に自生する芹(せり)を食べて生活していたことが、地名の由来という。千光寺はその山中にひっそりと建っている。奈良時代に端を発する小寺と伝えるが、戦国時代の争乱による火災のため、それを証拠づけるものはほとんど残っていない。現在、この寺の古さを示す唯一のものは、本尊の聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)である。これは、33年に1度信者の前に公開される秘仏(ひぶつ)であり、金銅製で白鳳期(はくほうき)の作とされている。
千光寺縁起では、寺の開基を中天竺(インド)の僧法道上人(ほうどうしょうにん)としている。法道は仙人でもあり、神に導かれて瑞雲(ずいうん)漂うこの般若野の蓮華谷(千光寺の西側の谷)に草庵(そうあん)を開き、尊像を安置したのがその始まりという。奈良時代には、鎮護国家(ちんごこっか)の仏教政策のもとで勢力を伸ばし、社会不安を除くため、奈古浦(放生津)で放生会(ほうじょうえ)を行っている。
この寺の宗派は初め三論宗であったが、後に真言宗に変り、現世利益(げんせりやく)を得るための加持祈祷を行なった。同時に、奈良〜平安時代にかけての神仏習合思想のもと、千光寺も八幡大伸(はちまんたいしん)を勧請(かんじょう)し、五社神(ごしゃしん)を寺の守護神として祀(まつ)ったこともあったという。戦国時代になると、上杉謙信が戦勝祈願をしたり、佐々成政や豊臣秀吉に保護を受けたこともある。江戸時代には加賀藩2代藩主前田利長により領地の所持が許され、藩の祈祷所とされている。特に、5代藩主綱紀が4才の時、天然痘にかかった折には、その平癒(へいゆ)を祈って効き目があったという。
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