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U−B中世の砺波『中世砺波の信仰と文化』1・2 2014.9.4
1真言の古刹千光寺

千光寺

 和田川を越え頼成(らんじょう)の森へ向う、その入口にあたる所が芹谷(せりだん)である。大昔、この地の人々が、この谷に自生する芹(せり)を食べて生活していたことが、地名の由来という。千光寺はその山中にひっそりと建っている。奈良時代に端を発する小寺と伝えるが、戦国時代の争乱による火災のため、それを証拠づけるものはほとんど残っていない。現在、この寺の古さを示す唯一のものは、本尊の聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)である。これは、33年に1度信者の前に公開される秘仏(ひぶつ)であり、金銅製で白鳳期(はくほうき)の作とされている。

 千光寺縁起では、寺の開基を中天竺(インド)の僧法道上人(ほうどうしょうにん)としている。法道は仙人でもあり、神に導かれて瑞雲(ずいうん)漂うこの般若野の蓮華谷(千光寺の西側の谷)に草庵(そうあん)を開き、尊像を安置したのがその始まりという。奈良時代には、鎮護国家(ちんごこっか)の仏教政策のもとで勢力を伸ばし、社会不安を除くため、奈古浦(放生津)で放生会(ほうじょうえ)を行っている。

 この寺の宗派は初め三論宗であったが、後に真言宗に変り、現世利益(げんせりやく)を得るための加持祈祷を行なった。同時に、奈良〜平安時代にかけての神仏習合思想のもと、千光寺も八幡大伸(はちまんたいしん)を勧請(かんじょう)し、五社神(ごしゃしん)を寺の守護神として祀(まつ)ったこともあったという。戦国時代になると、上杉謙信が戦勝祈願をしたり、佐々成政や豊臣秀吉に保護を受けたこともある。江戸時代には加賀藩2代藩主前田利長により領地の所持が許され、藩の祈祷所とされている。特に、5代藩主綱紀が4才の時、天然痘にかかった折には、その平癒(へいゆ)を祈って効き目があったという。

2禅宗興隆と薬勝寺

 鎌倉新仏教の一つで、念仏宗などと並んで庶民に広まったのが禅宗である。砺波では、安川の薬勝寺が、禅宗寺院として有名である。薬勝寺は、般若山と号する臨済宗の古刹で今は国泰寺派に属している。由来書によると、1359年(延文4)増山城主神保良衡(じんぼよしひら)を開基とし京都建仁寺の桂岩運芳(けいがんうんぽう)により招請開山(しょうせいかいざん)したと伝える。

 さて、この寺の境内には、「親王塚」と言われる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が1基残っている。寺伝によれば、これは後花園天皇の息子の淳良(あつなが)親王の墓という。そして、これについては次のような伝承が残っている。

 応仁の乱の頃、後花園天皇の皇子淳良親王が、京都の戦火を避けて般若野郷安川に移り住んだ。郷民は次第にこの皇子を敬慕するようになったが、これを神保良衡(じんぼよしひら)が妬み、ひそかに皇子を殺してしまう。良衡はその後、皇子の死を悼む素振りで葬儀を行ない、薬勝寺南の山腹に般若塔(はんにゃとう)という墓所を営んだという。これが、今に残る宝篋印塔である。

 以上がその概略であるか、実際は、この伝承は誤りらしい。なぜなら、後花園天皇には皇子の後土御門院(ごつちみかどいん)と皇女があるのみで、淳良親王という名の皇子はいない。この伝承は恐らく、1474年(文明6)に越中へ下向した徳大寺実淳(さねあつ)の伝承から、転化したものと考えられる。ただ、これは伝承についての解釈であり、宝篋印塔そのものは、実淳の時代よりはるかにさかのぼる。それでは、この塔は何のため建てられたのだろうか。断定はできないが、現時点では薬勝寺2代玉岩(ぎょくがん)か、3代文坡(ぶんぱ)の墓所ではないかと見られている。

【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

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