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V−A近世の砺波『庄川の治水と新田開発』3〜5 2014.9.4
3芹谷野の開拓

上芹谷野段丘 下芹谷野用水

 庄東山地は、谷間谷間に古くから人が住みついて、近世初期にはほぼ開拓が終わっており、特に増山(旧)は、増山城の城下として寺や諸職人が集まり、小さいながらも城下町を形作っていた。ただ、芹谷野の広い段丘だけが水利にめぐまれないため、そのままにされていた。しかし、藩政時代に入って未開の地がどんどん開かれだすと、ここも好適地として注目された。その動機には、射水平野西部の灌漑ということもあったにせよ、ここに近世の砺波平野では、最も大きい、そして典型的な新田開発が始まる。

 当時、射水地方の御扶持人十村をつとめて、農事の振興に努力していた射水郡島村の九郎兵衛(折橋氏)は、庄川から水を補給することを思いたった。その際、芹谷野を通したならば広大な未開地も開けるから、一石二鳥であると考えた。そして、そのころ砺波郡の御扶持人十村をつとめていた戸出村の川合氏と相談の上、1663年(寛文3)の春に藩に願いを出した。

 用水開さくの許可を得た島村の九郎兵衛と戸出村の又八は、早速人夫を集めて開さくに取りかかった。こうして引かれたのが、延長32kmの芹谷野用水である。用水が通じると、それを待ちかねたように付近の村々から入植者が入った。また、出作による開墾が行なわれて、翌1664年(寛文4)には一挙に20の新村が作られた。この新開の結果、約5000石ほど開かれたことになり、この新開は大成功を収めた。

4洪水との戦い

 松川除の築堤によって庄川は一応の安定をみたとはいえ、急に大河となったために下流の堤防は完備しておらず、以後出水の旅に沿岸村は洪水の災と戦わなければならなかった。

 記録に残された多くの洪水の中でも、1772年(明和9)の大洪水は藩政期を通じて最も規模の大きいものであり、人家や田畑に大きな被害を与えた。おりからの雪解け水で増水した庄川は、松川除を突き破って元の千保川の流路にその水量の7〜8割を流し込んだ。濁流はさらに、元の分流跡を整備して作られた各用水を伝って、砺波平野一帯を奔流した。この洪水は図のように広範囲にわたり、水が完全に引くまでに長時間を要した。

 このように、扇状地の洪水は、一度扇頂部で堰を破ると、それこそ立板に水を流すようにかけくだし、物すごい破壊力を発揮する。藩政末に至るまで、扇状地の村々全体から水下銀を徴収して松川除の補強に当たったのはこのためである。

5砺波平野と散村

 砺波平野では、各農家が密集せずに、それぞれ100mほどの間隔をおいて独立し、家のまわりは屋敷林でかこまれている。田に水が入る頃、杉の濃い緑で囲まれた家々が、水面に点々と浮かんで見える。その美しさに心をひかれる人も少なくないであろう。

 散村の農家では、家のまわりの耕地をその家が耕作している。このことが、この散村の成立と深い関係がある。かつて、庄川扇状地の未開拓地を開くにあたっては、人々は、開拓の適地を選んで仮居を定め、その周囲を開いていった。その場合、扇状地であるため、どこでも容易に庄川の豊かな水を引くことができ、地形的な制約というものがそこにはなかった。そのため、家々は散らばり、それぞれの周囲を耕作するようになった。このような散村の形ができたのは、砺波平野の開拓が急速に進む中世末から近世初頭にかけてである。その後、集村化することなく現在までこの形が続いたのは、この形が
農業経営の上で有利だったからである。つまり、自分の耕作する田が自分の家の囲りにあれば、田に肥料を運び出したり、刈って干し上がった稲を取り込んだりすることが容易にでき、日常の水の管理にも都合がよかったのである。加賀藩の政策である田地割は、くじによって各農家の耕作田がばらばらになるわけであるから、この村落形態の特性と相容れないものであった。しかし、藩は、この村落形態での農業経営上の利点を認めていたために、引地、替田を生むのである。農民の方からしても、田地割に従って経営農地が分散してしまうことは不利であるため、藩が認めた一定の引地ほか、活発に替田を行なって、この村落形態の有利性を維持しようとした。こうして、砺波平野では、この村落形態が現在まで続くことになったのである。

 散村の家々は、「カイニョ」と呼ばれる屋敷林で囲まれている。春先から初夏にかけてのフェーン現象や、冬の吹雪、台風などから家を守るために、屋敷林は南側に厚く、スギを中心にケヤキ、カシなどの背の高い木が植えられている。これらは、家の新築、改築の時の用材として利用したり、燃料としても使われていた。また、雪囲いの柱となる竹や、実のなるカキやイチジク、クリ、クルミなども見られる。人々は、この家を守るための屋敷林と生活と深く結びつけて、合理的なものにしてきた。


【砺波市史編簒委員会 『砺波の歴史』1988年より抜粋】

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