1585年(天正13)、越中に入国した前田利長は、農業政策を進める一方、産業政策にも力を入れた。天正から慶長にかけて(1585〜1606)、北野の市(現城端町)や篠河(ささがわ)の市(現福岡町)、そして、立野の市(現高岡市)などを許可し、参加者を制限しない庶民の自由な交易を発展させようとした。元和・寛永のころ(1615〜1644)になると、街道が整備され、埴生(はにゅう)・福町・佐賀野・中田・戸出・大清水といった宿場町が生まれてきた。
砺波平野にできた町を見てみると、城端・福光・井波・石動などの中世以前にできた町は、山麓にあり、杉木新町・福野・戸出・津沢・福岡などの近世に入ってできた町は平野部に位置している。このことから、砺波地方が、山麓からしだいに平野部へ開けてきたことがわかる。
1649年(慶安2)の正月、杉木村の次郎兵衛は、太郎丸村の七郎兵衛ら近くの村々の有志とはかり、市場町の町立(まちだて)を願い出た。内容は、次のようなものであった。
@杉木には、もとの市場町がありましたが、1608年(慶長13)に庄川が流れ込んだので、なくなってしまいました。もう一度、市場をつくりたいと思います。
A長さ300間(567m)、幅80間(151.2m)、草高にして100石の地面(太郎丸80石、深江10石、杉木10石)をいただき、家100軒を建てたいと思います。
B市の日はもとは3と9の六斉市(ろくさいいち)でしたので、それと同じにしてください。これらの日は、付近の戸出や中田・柳瀬などの市の日と重なりません。
C100石の地面をつぶすかわりに、太郎丸・深江・杉木・大辻・小杉の各村の川跡を3年以内に開墾して、100石を差し出します。
この願いは、砺波平野に町をつくり、商業行為を一定の場所でさせたいという藩の意向にも合い、さっそく許可された。こうして、今の出町である杉木新町が誕生したのである。この杉木新町は、中世の「市」から近世の「町」へ移行する過渡期的な形をとっていた。はっきりと町の建設を目ざしていながら、六斉市という市の名残を留めていた。しかし、しだいに、杉木新町は町として発達し、六斉市は享保のころ(1716〜1735)になると姿を消していった。
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