・敗戦と食糧難
1945年(昭和20)8月15日の正午、敗戦を告げる玉音放送があった。人々は悲しみとともに戦争のむなしさをかみしめ、これからの生活を心配しながら敗戦の日を迎えた。この日から空襲警報はなくなり、電灯が明るく輝き始め、この中で、今までの戦いとうって変わって、生活をたて直すための戦いを始めなければならなかった。
戦後生活の第一の問題は、食糧の確保にあった。敗戦の年は、米の大減収を記録している。その上に、戦地からの復員や引き上げで人口が増え、食糧輸入は断たれて、食糧の配給は1日1人、米麦2合1勺(一食あたり茶わん1杯と少々)にすぎず、栄養失調が広まった。町の人々は自ら生きるために動き出し、農村への食糧の買い出しに出なければならなかった。遠く高岡・氷見方面から、大きなリュックや袋を背負ってすし詰め列車に乗り、砺波方面へ買い出しに来る人が毎日続いた。また出町の人たちは、木炭バスに乗って栴檀山や栴檀野方面へ出向き、晴れ着を交換してまで米の「闇買い」に動き回った。戦時中の名残りとしての供出制度の乱れもあって、米は公定価格の132倍ともなり、戦争中でも経験しなかった空腹の時代が続いた。
・戦時体制の解体
戦時体制解体の最初に行なわれたのは、軍関係機関の解体であった。また、軍事訓練を行なうなど、地域の軍事体制を強める役割を果たしてきた在郷軍人会も解散した。そして、指導者の軍人分会長と翼賛(よくさん)壮年団長は公職から追放された。
一般の人々に対する戦時体制の解体については、県から指示された。公共の建物や土地は宗教上の祭礼に使用してはならず、また、市町村長が国旗掲揚を命じることはできなくなった。村々の学校や公共物にある忠魂碑や銅像については、特に天皇の神格化に結びつくものはとりのぞくこととされた。こうして生活のすみずみまで、軍国主義の影が徹底的に消された。
・社会生活の民主化
戦後、食糧難や生活難とならんで重要な問題とされたのは、封建的なしきたりからの解放など、社会生活の民主化の問題であった。これは、日本が戦争をおこした原因の一つが、半封建的な社会制度にあったとする連合国側の考えにもとづくもので、連合国側の占領政策の大きな柱とされた。
村々には、公民館の新設があり、また、青年団および婦人会の活動も、戦後、活発に行なわれるようになった。
青年団は、戦後、いち早くどの村でも結成された。それは、日本の復興を願う青年たちの若い情熱があったからにちがいない。娯楽の少ない当時の社会において、青年団の活動は彼らの生きがいをつくる上でも大切なものであった。演芸会や運動会が活発に催された。また、同人雑誌、機関誌も発行された。
民主主義思想の普及という考えで、最も活動がすすめられたのが婦人会であった。婦人会は、戦時中の婦女会がころもがえした形で組織された。当時の活動は、食糧・物資不足を解決し合うための活動が多かったが、生活改善運動や民主政治に関する学習なども取り入れられていった。
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