日本の食糧事情が安定した昭和30年代後半から40年代にかけて、日本はちょうど高度経済成長期に入っていた。1961年(昭和35)に農業基本法が制定され、農業をとりまく事情も大きく変わり、農業経営規模の拡大と農作業の合理化が急務となった。水田単作地帯である砺波市でも、生産増大と作業の効率化をねらって、土地基盤を改良しようという気運が高まった。当時の水田は、一筆平均3〜5a(アール)と小さく、その形もさまざまであった。農道は車はおろかリヤカーも通れぬくらい狭く、曲がりくねっていた。稲の運搬などは田越しかあぜ道を利用して行なわれ、もっぱら人の肩に頼っていた。用水路も蛇行し、大雨の時には水があふれることもしばしばであった。そこで、1962年(昭和37)の東野尻西部地区を皮切りに、農業構造改善事業に伴う圃場整備事業に着手した。圃場の大きさは、将来の営農の大型機械化を見通して、長辺100m短辺40mの40aのものや、長辺150m短辺30mの45aの大型水田が造られた。道路事情も大きく変わった。主要道路はそのまま拡幅改良されたが、幅3,4mの直線状の農道が縦横に新設され、点在する農家の宅道も同時に拡幅された。その道路沿いに用水路を設け、排水は圃区の中央にとった。このことは、この地方としては画期的な「耕地の革命」であった。
この大事業は、やがて団体営事業や県営事業として市内各地で進められた。当初、水田の多くが、扇状地にあって、れき層上の耕土が少ないことや圃場の高低が著しいことのため、工事による耕土の損失、水もれが心配された。しかし、建設機械や工事技術の進歩もあって、工法上の諸問題も順次解決されていった。工事を終えて換地の作業に入ると、従来の土地への愛着や換地の位置、個人感情などたいへんむずかしい問題があり、なかなかスムーズには進まなかった。このために、各地区では日夜熱心に話し合いが行なわれた。
こうして、砺波地区では24年の歳月と142億円という巨額な費用を投入して、1986年(昭和61)までに4900haの水田が大型圃場に生まれ変わったのである。圃場整備が進むにつれて農業の機械化も著しく進み、動力耕うん機に代わりトラクターが普及し、田植えは、手植えから歩行型田植え機をへて今では乗用田植え機となった。稲刈り作業でも、手刈りからバインダーをへて、自脱型コンバインが普及した。もみの乾燥も、地干しから火力乾燥へと変わった。
一方、国民の食生活の変化もあって米の生産過剰が深刻な問題となり、遂に1970年(昭和45)から米の生産調整“減反”生産が行なわれた。続いて、1978年(昭和53)からは水田利用再編対策として転作の割当制度が開始された。このことは、米作中心の本市農家にとっては大変な衝撃であった。最近では耕地の約20%の転作を余儀なくされ、主に大麦や大豆、里いも、飼料作物などを植え付けている。
また、圃場整備後の大きな変化は、農家の兼業化がいっそう進んだことである。また、米作りを大規模経営農家にまかせる農家が増えている。それは会社勤めに忙しくて時間のない農家、年寄だけで働き手のない農家、小規模で大型機械を買うこともない農家などである。市では農業機械銀行を設立して、代わって作業をしてくれる人を紹介したり作業料金の相談にのったりしている。整備や機械を大型化して請負(うけおい)耕作をしている農家では、数10haもの耕地を引き受け、会社経営の形態をとるなど近代的な経営をめざしている。このように、圃場が整備された砺波市の農業は新しい形へと姿を変えつつある。
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