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1近世 飛騨の木材が庄川で運ばれる(その1) 2015.2.5
流送とは?

 庄川では川の流れを利用して上流部の飛騨や五ヶ山などで伐り出された木材を運んでいました。これを流送(りゅうそう)、川下げなどと呼びました。

 庄川の流送がいつ頃から始められたのかは詳しくはわかりませんが、古文書によると近世初頭にはすでに流送が行なわれていたことがわかります。

 流送をする職人は流送夫(りゅうそうぶ)や人夫(にんぶ)と呼ばれました。奥山で伐られた木材を支流の川へ入れ、岩場に引っかかっている木材をヤリで押して流れに戻し、険しい山あいの急流を抜けて、平地部の土場(どば)まで木材を運びました。

 昭和初年に小牧ダムができたことにより庄川で流送は出来なくなってしまいましたが、その技術を活かして、庄川の流送人夫は日本各地で活躍しました。

事柄












































































































 西暦事柄 備考 
天正
13年
1585越中(新川郡除く )が前田家の領地となり、加賀・越中・能登の三国支配が始まる これより明治4年(1871)の廃藩置県まで、前田家による支配が286年続いた。
元禄元年1592この頃より加賀藩で用いる木材を五ヶ山より伐り出す 伐り出した木材は川の流れを利用して下流へ運ばれた 
元禄
3年
1594 加賀藩前田利家より五ヶ山の材木輸送について庄金屋に材木の管理を申し付ける  金屋には川下げされた木材を一時的に貯めておく御囲場があった
 慶長14年1609 加賀藩前田利家より高岡城築城のための木材を五ヶ山より伐り出す  
 元和7年1621砺波地方の山(隠尾山・栃上山・別所山他)で伐り出した木材を金沢へ運ぶ金屋の御囲場から千保川→小矢部川→今石動と運び、その後陸路で津端を経て金沢へ運んだ。運搬の際には地域の農民が動員された 
 寛永元年1624 この頃より加賀藩で用いる木材を飛騨より伐り出す  
元禄5年 1692 飛騨国が幕府直轄地となり、飛騨の山林が御林山(ごはいやま)として幕府の支配におかれる。飛騨の山で伐採された木材は幕府の御用木として江戸や大坂、清水に運ばれる。飛騨で伐採された木材は、南方は飛騨川を川下げして太平洋側に北方は庄川・神通川を川下げして日本海側に流し、海運で江戸や大坂に運ばれた
寛政3年1791 幕府の命により、天明8年(1788)の大火で焼失した東本願寺再建のため、白川郷の山より伐り出された木材が庄川を下って金屋に集められ、翌年伏木を経由して京都まで運ばれる
その様子を描いたものが「二十四輩順拝図会」に載っている「本願寺用木を伐出す」である 
白川郷五ヶ山→金屋→伏木→能登→加賀→若狭→丹後→但馬→因幡→伯耆→出雲→石見→長門→周防→安芸→備中→備後→備前→播磨→大坂→伏見→高瀬川通→京都七条
天保11年1840 高山の商人が飛騨御林山から江戸城修理のための用材を伐り出した際の枝木を川下げして木呂(薪用の雑木)として金屋で販売をする金屋岩黒村・青島村は木材の集散地として重要な位置を占めるようになった 
明治7年1874廃藩により規制されていた伐木が自由になる。高山の材木商により飛騨の山から伐採された建築材・用材が庄川に川下げされ、庄川の流送が盛んになる  
大正4年1915青島貯木場に鉄道が敷設され(砺波鉄道青島町駅)、下流の伏木まで川を利用して流していたものが陸上輸送に替わる(中越鉄道福野駅経由)  
大正5年1915 浅野総一郎が発電を目的に庄川水利権の使用を出願(大正8年認可) 
大正15年1925富山県知事がダム工事認可  
昭和5年1930小牧ダム完成により庄川での流送が出来なくなる  
 戦前 庄川の流送夫たちが北海道、静岡、日本統治下の満州、南樺太などへ流送夫として出稼ぎにいく越中衆と呼ばれた庄川流送夫たちは技術が高くまじめで働き者として評判が高たった 
 戦後 北海道や静岡へ流送夫として出稼ぎに行く 北海道では主にパルプ材を、静岡ではパルプ材のほか、茶や果物の木箱の木材も流送していた 
 昭和30〜40年  トラックによる陸上輸送、ダムの建設、人夫不足、安価な外国産木材の輸入などにより流送が衰退、江戸時代より続いた流送の歴史に幕を閉じる 

木材を求めて 加賀藩と五ヶ山

 天正13(1585)年、越中は前田家の支配下になりました。長く続いた戦乱の世が終わり、さまざまな普請(土木工事)などの公共整備を行って、治世に努めました。築城も架橋も、当時の建築材料は木に頼っていました。一度完成しても度重なる川の氾濫や火災などにより、城も橋も何度も損失と再建を繰り返し、そのたびに大量の木材が必要となりました。加賀藩はその材料を五ヶ山に求めました。









 一、山中ヨリながし下、材木事
 庄かな屋の在所へあけ置、くさらざるやうニ、能(よく)ふたをさせ可置候、用次第二可取寄事

一、れう木弐百枚の事ハ西あかほの百姓として、かねとまで可付事、以上

元禄三(一五九四)
  六月廿二日  としいへ 印
            有賀斎
            小林彌六左衛門との
(五ヶ山高桑宅左衛門覚書『太田市史』所収)



〇上は前田利家が、五ヶ山や飛騨から切り出し、庄川へ流した材木について、その管理と運搬について命じた文書である。

一、川へ流した材木は金屋で引き上げてくさらないように保管し、必要に応じて運搬すること
一、「れう木」(五葉松の板)は、西赤尾ら小瀬峠を越えて、城端の金戸まで運ぶこと

 この文書により、元禄3年(1594)にはすでに金屋に御囲場が設けられていたことがわかる。

天領 飛騨の山

 ケヤキやヒノキが立ち並ぶ飛騨地方(現在の岐阜県北部)は高い山々に囲まれ、山には欅や檜などの美林が広がり森林資源がとても豊かでした。

 飛騨国は、元禄5年(1692)に幕府直轄領(天領)となり、飛騨の山林も幕府の所有となりました。高山には、役所「陣屋」が置かれ、慶応4年(1868)まで郡代、代官が政治を行いました。

 豊かな山林が広がる山を「御林山(ごはいやま)」として、幕府から派遣された代官は、御林山の管理、植林、材木の払下げなど、官材としての山林資源を管理・支配しました。

 飛騨の御林山から伐り出された木材は、幕府の命令によって城の建築・修理のほか、社寺の修理などにも使用されました。


【砺波郷土資料館『流送に生きた人々展示図録』平成26年より抜粋】

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